03ファイナル ノンPAノンマイク・
      スイス・シークレットライブ顛末記

“BOMB”

 実はわたくしは、2000年にも旅芸人さまのライブを手がけたことがあるのであります。
しかも、今回と同じくノンPAノンマイクライブで。その時の話をちょっとさせてください。

 1999年、スイスの地で旅芸人さまを再発見してからまだ日も浅い頃のことであります。
わたくしは、
「加奈崎芳太郎を勝手に支える会」なる怪しげなる会を立ち上げ、勝手に奔走しておりました。
1人でも多くの人に旅芸人さまを知っていただきたいと書いた最初の文章が、
topicsに今も掲載していただいている
「あなたがフォークソングで育ち、ビートルズから多くを学んだ世代で、まだ胸の奥に熱き思いを秘めているなら、あなたはぜひ加奈崎芳太郎を聞くべきだ。加奈崎はそんなあなたに向けて今も熱く激しく歌を発信し続けている。」
であります。
その冒頭でわたくしは「彼のパワーをCDは再現できない。彼の殺気を映像は写し撮れない。
へたをすればライブ会場音響機器が彼のヴォーカルのニュアンスを拾いきれない。
加奈崎芳太郎とはそんな、全くどうしようもないほどのライブミュージシャンなのだ。」と書きました。
そんな文章を書いてしまうと、
どうしても機械を通さない旅芸人さまの歌声を聴いてみたくなるのが人情というもの。
そこで、ことあるごとに「ノンPAライブを演って下さい。」と旅芸人さまにリクエストしておりました。

するとある日、旅芸人さまから直々のお電話があり「あの話だがな・・・お前がやれ。」
と勅命が下されたのであります。
しかもその時点で、会場については旅芸人さまに既に心に決めた場所があり、
ノンPAノンマイクライブの性質上、ファンクラブとHPだけで告知をするシークレットライブとすることまで
決まっていたのであります。
わたくしは、主催を旅芸人さまご本人とし、自身は「番頭」として雑用係に徹するという条件でこのお話を
お引き受けしたのでありました。
ちなみにそのライブは、2000年9月30日に、スイス国は下諏訪町の「ユーペンハウス」というペンションで行われたのでありました。その時のノーハウがわたくしにはありました。
それをそのまま使えばいつでもノンPAノンマイク・シークレットライブをできるはずであります。

ただし、ここにひとつだけ大きな問題がありました。それは会場のことです。
ユーペンハウスに旅芸人さまの先導で下見に行った日、
「15年前にはじめてこの場所に来たときから、
いつか、ここでノンPAノンマイクライブを演りたいと思ってたんだ。」とその想いを語られた旅芸人さまが、
ライブ後には、「もうあそこで歌いたいとは思わない。」とおっしゃるようになってしまわれたのでした。

主催者が気乗りしない場所を会場とするわけには参りません。
となれば、新しい場所を見つけるしかありません。しかし、そのハードルは限りなく高い。
まずは旅芸人さまご自身が「ここで歌いたい。」、最低でも「ここでなら歌ってもよい。」
と思える場所でなくてはなりません。

それと同時に、遠来のお客様にチケット代の何倍もの交通費や宿泊費を支払った価値があったと
満足していただける場所でなければなりません。
コアなファンの皆さまは、旅芸人さまの歌が聴ければそれで満足なのだとおっしゃるかもしれません。
しかし、その多くが40代であるコアなファンの皆さまは、豊かな人生経験に裏打ちされた洗練された
センスの持ち主でもいらっしゃいます。
その方々に満足していただけるサムシングエルスがその場所になければならない。

そして、それはわたくし一人の勝手な思い入れではありませんでした。
「都会から来る奴らに、スイスでしか味わえない空気を味わわせてやりたいんだ。」
とライブ会場の内側のことばかりでなく、周辺の佇まい、景色を含めたアプローチ、
天気を含めた状況設定に一番細かくこだわっていらっしゃったのは、
実は旅芸人さまご自身だったのであります。

「唄の市」が終わって一月以上経った7月20日のことでした。
この日わたくしは、旅芸人さまを誘って、八ヶ岳の山麓のとあるレストランに出かけました。
木陰の野外レストランスペースと、その奥にある二階建てのかなり年季の入ったログハウスが趣のある
空間を形作っていて、そこだけぽっかり日本ではないような雰囲気がありました。
「唄の市」のポスターを貼らせてもらいに来たとき、店の人から「かつてコンサートをやったこともある」という話を聞きつけ、旅芸人さまのOKが出たらここでと密かに心に決めていた場所だったのです。
机をこう動かして、こちらをステージにして、などとイメージを膨らませ、ここにしようかと話がまとまり、
店の人を呼んで相談を始めると、何と、宿泊施設がないという。
山奥にある大きなログハウスだから当然宿泊施設を併設しているはずだと勝手に思い込んでいたわたくしの単純ミスだったのですが、
その時はもう、「エー! 何で! 聞いてないよー!」とダチョウ倶楽部状態でした。
しかも、近くに宿泊施設はないという。わたくしは目の前が真っ暗になりました。
瓦版にライブ告知をするための締め切りが目前に迫っている。だから、
日を改めてゆっくり探すという訳にも行かない。

そんな冷や汗もののドライブの末たどりついたのが、原村ペンション・ビレッジの観光案内所。
しかし、そんなにやすやすといい場所がみつかるはずもない。
まず、音楽クラブの合宿に使われることもあるというペンションをいくつか紹介してもらい尋ねるが、
イメージと違う。
ビレッジ内の八ヶ岳自然文化園セミナーハウスという施設にホールがあると聞いて尋ねるが、
これもピンと来ない。最後は、村内を車でゆっくり流しながら、
趣のありそうなペンションに飛び込みで相談してみるが、話が通じない。
お洒落なベランダに洗濯物が干してあるのなどを見ながら、
これは望みがないと一度はペンション・ビレッジを諦めかけましたが、
個人経営の貸しホールがあると聞いて、
最後の最後にたどり着いたのが「Ring Link Hall」だったのであります。

その時、そのホールではジオラマ展のようなものをやっておりましたが、
会場に入るや旅芸人さまは、手を鳴らしたり声を出したりして反響の具合をお確かめになりました。
それまで室内を見せていただいた何軒かのペンションでは、旅芸人さまは話を聞くだけで、
音を確かめようとはなさいませんでした。
ところが「Ring Link Hall」ではほとんど反射的に音を確かめられた。
そして、ほとんど即決のような形で会場はここと決まったのでした。

帰りがけの車の中でしたでしょうか、旅芸人さまがこんなことをおっしゃいました。
「あの空間ならば出来る。ここで自分が何をして、どんな歌を歌えばいいのかというイメージが湧いてくる。」

これは後から振り返って、今だからこそ言えることですが、
この瞬間に、「03ファイナル ノンPAノンマイク・スイス・シークレットライブ」の成功は約束されたのでした。
実は、わたくしには「なぜ旅芸人さまはOKと言って下さらないのか。ここでいいじゃないですか。」
と言いたくなった瞬間が2回ありました。
しかし、いまになると、あの場所でなくてよかったとはっきり言えます。
イメージを喚起する空間と出会うまで決して妥協せず、
また、そういう場所が必ずあるはずだと信じ続ける。
そういう旅芸人さまの揺るぎのなさが、最高の場所との出会いを呼び込んだのだと思います。

2000年のユーペンハウスライブの時、
その当日まで、わたくしはコアな加奈崎ファンの皆さまとほとんど面識がありませんでした。
ただ参加申し込みの住所を見ながら、
「わーすげえ、この人三重県から来るんだ。この人は九州からだよ。」などと感激していただけでした。
ところが、あの晩のアフターパーティーのたった一度の出会いによって、
わたくしはその方たちに対して30年来の友人に対するような親近感を抱くに至ったのでした。
加奈崎芳太郎というミュージシャンをどうしようもなく好きである。
確かな共通項はそれしかありませんでしたが、それだけで十分でした。

Ring Link Hallで、その方たちの多くと再び旅芸人さんを真ん中に飲み明かし、至福の時を共有してみると、
2000年のユーペンハウスこそが全てのはじまりだったのだなという感を強くいたします。

しかし、あのユーペンハウスには、参加していただきたかったのに参加していただけなかった方や、
参加を申し込まれながら当日お見えにならなかった方がいらっしゃいました。
また、ユーペンハウスには参加していただいたのに、
その後音信が途絶えてしまった方もいらっしゃいます。
わたくしは、それらの方々のことが忘れられませんでした。

今回のライブのわたくし個人の密かなテーマは、
もう一度それらの方々とつながり合いたいということでありました。
加奈崎芳太郎というミュージシャンが好きである。
加奈崎芳太郎の歌を最高のシチュエーションで聴きたい。
それで十分ではありませんか。それ以外何が必要でしょう。

旅芸人さまがOKをくだされば、今年もあの場所でライブを開催したいと思っております。
加奈崎芳太郎を心より愛する皆さま、懐かしい顔も、新しい顔も、お会いできることを楽しみにしております。

では、またいずれ。