「2001年ファイナルへの道」

“BOMB”

(お願い)私は私の思いで勝手にこの文章を書き連ねていきますが、もし、「それは違うぞ」とか「そのことに関わってひとこと言いたい」という方がいらっしゃったらぜひ絡んできて下さい。多くの方の「想い」が絡まりあって、より立体的な2001年ジャパンツアー回顧になればいいなあなどと思っています。


2000年、加奈崎さんはジァンジァン閉店という状況の中で「もしかしたらこの旅の終わりがミュージシャン加奈崎芳太郎の終わりになるかもしれない」という覚悟を胸にツアーを行っていたといいます。しかし、その旅の終わりはミュージシャン加奈崎の終わりとはならなかったのです。なぜなら加奈崎さんに歌い続ける勇気を与えたさまざまな事件と出逢いがそこにあったからです。全国各地の、加奈崎さんを聴き続けていた人々、このツアーで加奈崎さんの歌に再会した人々、全く新たに加奈崎さんに衝撃を受けた人々の熱き想いが、次のステージを用意することになったからです。

だから2001年のツアーは基本的には約束を果たしに行く旅であったのだと思うのです。2000年に自らが撒いた種が全国各地で芽を出している。ならばそれを刈り取りに行かねばならない。あるいは水をやりに行かねばならない。そういうものとして今年のツアーはあったのではないでしょうか。ライブの質を高めるのは、ファン主催ライブがその典型ですが、ミュージシャンを迎える側(主催者と観客)の「想い」の深さです。だから今年はひとつひとつのライブの内容が濃かったのだと思うのです。そのことが、古井戸2000長崎ライブからはじまった今年のツアーがとてもこの1年の間に起きたこととは思えないという私の印象につながったと私は思うのです。

加奈崎さんはマネージャーやローディーを連れ歩かない。だから今年、加奈崎さんのライブを全て聴いた人間は一人もいない。一番沢山聴いたのは誰だろう? レプさんだろうか? しかし、それでも20回は越えていないのではないか。

全てのライブに参加しているのは加奈崎さん本人だけである。しかし、加奈崎さん自身が常々「自分の演奏を一番聴いてみたいのは俺だ」とおっしゃっているように、演奏を聴くということに関して一番遠いところにいるのが加奈崎さんなのかもしれない。

ならば、21st. Century Japan Tourの全体像を客観的に俯瞰して、そこを貫くテーマについてさらりと語れる人間など、この日本にひとりもいないことになる。我々に出来るのは、ただ、自分が参加した数少ないライブの印象をつなぎ合わせて想像力をたくましくすることだけなのだ。

そう考えた時、私はどうしても4月21日のクラブ・ザ・モンキーライブについて触れないわけにはいかなくなる。ソロライブとしては21世紀最初のライブ。しかし、それは極めて難解なライブだった。私はその真意を測りかね、ついにライブレポートをこのBBSに掲載することを断念してしまった。では半年以上経った今なら何かを語れるのかと言われれば自信はない。しかし、何も考えがないわけでもない。

そこでこれから何回かにわたって「4・21ライブ」について報告してみようと思う。それは多分大変回りくどく読みにくい文章になるだろう(それはいつものことだって?)。しかし、その中からしか21st.Century Japan Tourのテーマとか、そこに託した加奈崎さんの想いといったものは見えてこないような気がするのである。

 4月21日、岡谷クラブ・ザ・モンキーで、加奈崎芳太郎は、誰に向かって、何を表現しようと企んだのだろう・・・

 ライブ前、私はこのBBSに「このライブのターゲットのひとつは若者だ」というようなことを書いた(といっても今はもう誰も読めないが)。しかし、その予想は見事に外れた。加奈崎さんは、若者にとっては難解とも思える実に渋いライブを展開したからだ。そこには若者に対する直接的な呼びかけはなかった。少なくとも私はそれを感じられなかった。これは、当日、会場に若者の姿が目立ったかどうかということとあまり関係ないことのような気がする。加奈崎さんは、加奈崎さんの内的必然性から、あの日のライブを最初っからああいうものとして組み立てたに違いない。では、加奈崎さんはいったい誰に向かって、何を表現していたのだろう・・・

 あの日のライブには前座がいた。加奈崎さんの愛弟子であるアルマジロバンドだ。そのことから、すぐに思い浮かぶのは、「あの日のライブはアルマジロバンドの二人に対するメッセージだ」という考えだ。確かにそう考えると分かりやすい。

 アルマジロバンドの二人は、これ以上ないというくらいの真摯さと激しさで彼らの音楽を我々に叩きつけてきた。稲田さんの叫びと佐藤さんの渾身のドラムは、上手いとか下手とかということを超越していた。特に佐藤さんの、何もそこまでやらなくてもというほどのドラムスとの格闘ぶりは、それだけで聴く者の胸を熱くさせた。
 彼らが加奈崎さんから何を受け継ごうとしているのか、加奈崎さんが彼らの何を評価しているのか、それは一目(一聴)瞭然であった。私はアルマジロバンドの演奏に紛うことなき加奈崎イズムを聴いた。だから、私は二人の音楽をすぐに受け入れることができた。

 アルマジロバンドの演奏についてもう少し書こう。ベース音を効かせながら大音量でかき鳴らされる稲田さんのエレキギターと佐藤さんのドラムスのアンサンブルは空気の振動そのものであった。それは地響きとして足の裏から入り込み私の全身の骨をカタカタいわせた。あるいは爆風として皮膚にぶち当たり毛穴から侵入し内臓を震わせた。あの晩、小屋全体が彼らの発する音により振動していた。これは例えとして言っているのではなく、本当にそうであったのだ。アルマジロバンドの音楽はもはや耳で聞く音楽ではなかった。体全体で受けとめるしかない何ものかであった。
 エレキギターとドラムスという不思議な編成のバンドなのだと聞いたとき、私は正直言って「すきまの多い音なのではないか」と思った。しかしその浅はかな予想は見事に裏切られた。私は「ベースギターなんか無くったってバンドは成立するのだ。ハードで厚みのある音は作れるんだ」という事実を思い知らされ、ただただあっけに取られた。打ちのめされたといってもいい。
 そんな演奏に乗っかる稲田さんのボーカルも壮絶だった。限界を越えたシャウトは、正直言って何を歌っているのかほとんど聞き取れなかった。しかし何かを伝えようとする意志と、伝えようとしているメッセージや想いに対する思い入れの深さだけは有り余るほどに伝わってきた。私はふたりの魂の在処を感じることが出来た。

 会場を横目で眺めると、中学生・高校生と思われる観客が、その音圧に耐えられずに耳を塞いでいた(彼女たちはライブハウスという空間に慣れていないようであった)。しかし、私は平気だった。おじさんは強いのだ。年を取っているということは、音楽に関してもいろんな経験を積んできているということだ。音が大きいとか激しいというだけでは動じないのだ。問題はその音の中に受け取るに値する何かが含まれているかどうかなのだ。だから私はやせ我慢でも、年寄りの冷や水でもなしに、彼らの叩きつけてくる音を丸ごと受け入れ、楽しむことができた。

 ただし、あの晩のアルマジロバンドの真の観客が私たちであったのかということになると少々疑問が残る。ふたりの演奏を楽しみながらも、私は客席の後ろが気になってしかたがなかった。ふたりが、本当に音楽を届けたかった相手は私たちの後ろにいるであろう加奈崎さんだったのではないか。目の前の私たちに演奏を叩きつけながら、ふたりは心のどこかで加奈崎さんを捜していたのではなかったか。加奈崎さんに自分たちのバトルを見てもらいたいと思っていたのではなかったか。
 この思いは聴けば聴くほど強くなっていき、確信に変わっていった。こんなことを言ったら必死で演奏していたふたりを愚弄することになるかも知れないが、どの曲を聴いても、私はその奥に「師匠! 俺らの叫びを聴いてくれ。」「師匠! どうですか俺らの音は。」という加奈崎さんへの問いかけが込められているような気がして仕方なかった。私はふと、つかこうへいの「蒲田行進曲」での銀ちゃんに蹴られても蹴られてもすがりついていくヤスの姿を思い出した。

 だからあの晩、加奈崎さんにはそんな愛弟子の力一杯の問いかけに答える義務があった。そして心やさしい加奈崎さんが、それを思わないはずがない。では加奈崎さんはどのようにアルマジロバンドのふたりに答えを返したのか。
 ここ何年かの加奈崎さんを知っている人は、多分例外なくアルマジロバンドを上回る爆音ライブを展開する加奈崎さんを想像したことだろう。50歳を越えた加奈崎さんが力業で弟子の挑戦を跳ね返してみせる。パワーをパワーでねじ伏せ、テンションの高さををさらに高いテンションで凌駕する。そんな姿を思い描いたはずだ。

 ところが加奈崎さんはそうしなかった。加奈崎さんはアルマジロバンドのパワーをあっさり受け流し、我々とアルマジロバンドに「フォークソングの神髄」を披露してくれたのだ。今日は最後までダブと柳吉だけで通すという宣言をした時、加奈崎さんは確かに「今日はフォークソングの神髄をお聴かせする」と言った。それが加奈崎さんの答えであったのだ。
 それがアルマジロバンドの演奏へのアンサーであったことは、MCの中で、ふたりの演奏について(正確な言葉は忘れてしまったが)「俺もそうだが、どうしても爆音が欲しくなるときがあるものなのだよ。」と二人を擁護し、いたわるような発言をしたことや、さらには「俺があいつらの年の頃にはな・・・」と今のアルマジロバンドと自分を比較するような発言が折に触れあったことからも明らかだろう。
 では加奈崎さんはアルマジロバンドのふたりに何を伝えたかったのだろう。加奈崎さんの気持ちを、私が勝手に代弁するならば、それはたぶん次のようなものだったのではないか。
 「ワシも爆音ライブを演るが、それは今日お客様方にお聴かせしているような緻密で完璧な唱法とギターテクニックを持ちながら、その果てに演っていることなのだ。お前らにはこういう芸当は出来んだろう。お前らに足りないのはそれなのだ。音楽に対するお前らの誠実さと演奏のテンションの高さとパワーをワシは認めるが、それだけではいつまで経ってもワシの足下にも及ばんぞ。しっかり修行を積まんかい。」
 加奈崎さんは音楽を支える技術に関しての何かをアルマジロバンドに伝えよとしていた。それは多分間違いないだろう。(思えば昨年のサンタラを前座に指名したときには加奈崎さんはエレキギターにこだわってテンパり系演奏の究極を聴かせてくれた。たぶんあの時の加奈崎さんは、ヴォーカルのテクニックということではかなりの線を行っていたサンタラに対して「お前らの才能と可能性は認める。だからこそ絶対にテクニックに走るんじゃねえぞ。お前らに今必要なのは、このテンションだ。分かったか。」ということを身を以て示そうとしたのだろう。)

 しかし、この解釈はアルマジロバンドのふたりにとってのみ意味がある答えだ。そんな対象を極端に限定したライブを、いくらその相手が愛弟子だからといって加奈崎さんがするだろうか。
 そんなはずはない。加奈崎さんが観客全員を置き去りにするようなライブをするはずがない。したがってあの晩のライブは、アルマジロバンドのふたりにとって意味がある特殊なライブであったと同時に、すべての観客にとっても意味がある普遍的なライブでもあったはずだ。そうであってもらわなくては困るというのが私の考えだ。

 そこで私の考えはぐるりと一周して「岡谷クラブ・ザ・モンキーで、加奈崎芳太郎は、誰に向かって、何を表現しようと企んだのだろう・・・」という最初の問にもどっていくわけである。果たして「アルマジロバンドの二人を意識したあの晩限りの特別のパフォーマンス」という分かりやすい解釈の後ろに、いったいどんな思いが隠されていたのか。どんな願いが込められていたのか。そこには間違いなく深い意味が込められていたはずなのだ。ではそれはいったい何なのか。それこそが私の問いであり、この文章の出発点なのだ。

 「岡谷クラブ・ザ・モンキーで、加奈崎芳太郎は、誰に向かって、何を表現しようと企んだのだろう・・・」

 この問いそのものが無意味だという解釈をする人もいるであろうと私は思う。それはあの晩の加奈崎さんがフリーハンドで歌うべき歌を選択できるような状態ではなかったからだ。理由は加奈崎さん自身がおっしゃっているように、喉の調子が最悪だったことによる(クラブ・ザ・モンキーライブの前後、加奈崎さんは普通に話をするのでさえ喉が痛んでつらいという状態であった)。
 だから、加奈崎さんはああいう演奏を選んだのではなく、ああいう演奏しかできなかったのだといえないこともない。

 確かにあの晩の加奈崎さんにとってアルマジロバンドの演奏をさらに上回る爆音ライブを展開することは不可能だった。50歳を越えたミュージシャンが力業で弟子の挑戦を跳ね返してみせる。パワーをパワーでねじ伏せ、テンションの高さををさらに高いテンションで凌駕してみせる。そういう演奏を期待することは酷な状態であった。

 演らなかったのではなく、出来なかった。演りたかったが、出来なかった。そのことを一番分かっていたのは加奈崎さんであり、そのことを誰よりも無念に感じていたのも加奈崎さんであったに違いない。なぜならあの晩、加奈崎さんは明らかに喉に負担のかかる激しい楽曲や高音域を必要とする楽曲にも挑戦していたからだ。
 演奏のテーマやスタイルを変えることで対処できることは対処する。差し替えが出来る楽曲は差し替える。しかし、どうしても避けて通れない曲、内的必然性のある曲はきつくても演る。どうしても聴かせたい歌は無理を押しても歌う。
 それがあの晩の加奈崎さんの覚悟ではなかったかと私は思う。

 あの晩加奈崎さんは14曲を演奏した。その曲順は以下の通りである。
@天然の進化
Aイースト・オブ・タウン
Bいつまでも若いままで
Cケージアンソング
D目が覚めネェー
E酒はよき友
Fブルースカイ
Gボー
H真っ赤なクーペ
I悲しみの正体
J雨は降る
Kアリガトウ・アリガトウ
Lマイライフ
M月に腰かけて(初演)

 このうち@からFまでは加奈崎さん言うところの「フォークソングの神髄」としての演奏であった。その内容についてはあらためて触れるが、それはひとことで言えば「完璧な演奏」であった。喉が痛いということが実はウソだったのではないかと思わせるような素晴らしい演奏であった。そしてそれは私が初めて耳にした「もうひとつの加奈崎芳太郎の世界」でもあった。
 それに対してGからLは3年前に再会して以来聴き続けてきた「私の知っている加奈崎芳太郎の世界」であった。そしてそれはこれまで私が体験したライブであったならば、その圧倒的なパワーによって聴くものを打ちのめす、加奈崎芳太郎の真骨頂ともいえる楽曲の数々であった。
 しかしあの晩は違った。加奈崎さんは何度も何度も試みたが、その歌はついに飛翔しなかった。加奈崎さん自身も神懸かり的なテンションに到達できないままに終わった。もちろん、その原因は全て喉の調子のせいである。私にとって、あんなに声の出ない苦しげな加奈崎さんを見ることは初めてであった。それは見ているだけでこちらも辛くなるような状態であった。もちろんその辛さをもっとも強く感じていたのは加奈崎さん自身だったに違いない。多分あの時加奈崎さんはものすごい不安と戦っていたのではないか。ここでもう一歩踏み込んで声を張り上げたら、全く声が出なくなるのではないか。今この瞬間にも喉が壊れてしまうのではないか。それは恐怖といってもいいだろう。
 そんな恐怖がちらっとでも加奈崎さんの頭をよぎったとしたら、そのことが演奏に影響を与えないはずがない。
 
 これが、あの晩の加奈崎さんの演奏の私にとっての真実だ(客観的な事実というにはあまりに私の主観が入りすぎているのでそうは言わない)。だからあそこにいたい人の中に、「あの晩の演奏は喉の状態が最悪であるというやむを得ない事情の中で緊急避難的に行われたものであり、だからそこには【フォークソングの神髄という名の逃げの演奏】と【無謀にも挑戦して失敗した本来の演奏】しかなかったという評価する人がいたいとしても仕方がないと思う。そう考えるに十分なだけの状況はあったのだから。
 そして、もしそういう立場を取るならば、喉の調子が回復するにしたがって加奈崎さんは「爆音ライブ」に戻って行くだろうし、そうすべきだということになる。

 しかし果たしてそうだったのだろうか。そうすると、あの晩のライブは「アルマジロバンド」へのメッセージであるということと合わせて二重の意味で特殊なライブであったということになってしまう。

 いや、そうではなかったのだ。あの晩はやはり21世紀の加奈崎芳太郎の出発点となる重要なライブだったのだ。そのことを私はこれから言おうとしているのである。

 2001年4月21日の岡谷クラブ・ザ・モンキーライブは、誰が何と言おうと21世紀の加奈崎芳太郎の出発点となる重要なライブだった。もっと言えば、加奈崎芳太郎の転機となるような歴史的なライブだった。という話の続きである。

 私がそう思うようになった理由は主に二つある。そのひとつはあの晩の演奏曲目がそのまま21st.Century Japan Tourに引き継がれたことだ。

 正直に言えば、あの晩のライブが一夜限りの特別なパフォーマンスではなかったということについて、ライブ直後の私は確信が持てなかった。しかし、その後の九州ツアー、北海道ツアー、近畿・中国・四国ツアーの様子をBBSで読み、あの晩の演奏曲目が、多少の出入りはあるものの、その後のツアーに引き継がれていることを知り、それは確信に変わっていった。
 そのうちの「天然の進化」「いつまでも若いままで」「イースト・オブ・タウン」「ケージアンソング」「酒はよき友」「アリガトウ・アリガトウ」といった曲は、ノンPAノンマイクシークレットライブなどの特殊なライブ以外、2000年のツアーではほとんど演奏されることがなかった曲だ。「ケージアンソング」「酒はよき友」などは2000年には全く演奏されなかったはずだ。そういった曲が21st.Century Japan Tourのメインの曲になった。

 このことが重要でないはずがない。加奈崎さんはこれらの曲に今年のツアーのテーマを託している。そう考えて間違いはないだろう。

 ここで誤解を恐れずに言えば、それらの曲は高音域や強い声をあまり必要としないどちらかと言えば「喉に優しい曲」である(と思うのだが違うだろうか?)だからそのことが選曲理由のひとつとして、あるいは重要ななファクターとしてあったことは間違いないだろう。
 だが、そのことを認めつつ、しかしそれは喉の調子がもどるようになるまでの緊急避難としての、安易な一時的な理由による選択ではなかったというのが私の考えなのである。喉を痛めたことがきっかけとなったことは事実だが、そのことをきっかけに加奈崎さんはある決断をしたのではないかと私は考えている。しかし、その話に入るのはもう少し先にしよう。

 あの晩の演奏とその後のツアーでの演奏を同一のもののように論ずることが危険であることは承知している。加奈崎さんにとってひとつひとつのライブが一期一会の真剣勝負であり、決してひとつの鋳型からコピーをするようなものではないからだ(そういうミュージシャンもいるようだが)。特にファン主催ライブなどのことを考えれば、そこには主催者の想いと、それに応えようとする加奈崎さんの想いが詰まっていて、とてもひとつの流れの中で論ずることはできないだろう。しかし、それを承知であえてひとつながりのものとして論じようと言うのが今の私の立場である。そうしなければ「この一年を貫くもの」に話が及ばないからだ。そのことに不快感を感じている方がいたらぜひ許していただきたい。

 あの晩のライブとその後のツアーにはひとつ明瞭な違いがあった。それはギターだ。あの晩、加奈崎さんはアコースティックギターでの演奏にこだわったが、その後のツアーではチェットアトキンスを使用していた。これは夏に向けてのツアーの長旅にアコギが耐えられないという純粋に技術的な問題であったようだが、私は、この違いはけっこう大きいのではないかと思っていた。
 しかし各地からBBSに寄せられているレポートを読むと、あの晩私が感じた印象と極めて近いものを多くの人が各地のライブで感じたようだ。私はそれらのレポートを読みながら、まるで4・21レポートを読んでいるかのような錯覚に陥ってしまった。
 これはほんの一例に過ぎないが、たとえば7月20日の滋賀県大津市「ハックルベリー」ライブのレポートの中で、土田ヒロユキさんは「非の付けようの無い、一片の曇りの無い、声、ギター!」という表現を使っている。また、7月22日の山口県徳山市「ブギーハウス」ライブの感想を、やてつさんは「澄んだ声?、柔らかく温かい、それでいて力強い声」「なんて心地よい歌声。それにギターもね。」と、ダーハラさんは「言葉一つひとつが水晶のように透明でオドパワーを頂きました」と表現している。
 これらは昨年の30st.anniversary tourのライブレポートではあまりお目にかかったことのない表現である。2000年の加奈崎芳太郎は、「最後の誘惑」や「さらば東京」や「OLD50」などで観客の涙を誘うことはあったものの、トータルとしての印象はとんでもなく力強く、熱く、激しく、重いというものだったはずだ。だからお三方が指摘した透明感、柔らかさ、温かさ、あるいは完成度の高さといったものは2001年バージョンの加奈崎芳太郎の特徴なのだと思う。そしてそれは4月21日に私が感じたことそのものだったのである。

 4月21日、加奈崎さんは、一方でアルマジロバンドに師匠としてのメッセージを送りながら、同時に21st.Century.Japan.Tour.を模索し、試行したのだ。そしてその試行は成功したのだ。さもなければ、あの晩のライブの形がその後のツアーに引き継がれるはずがないし、あの晩私が感じたことと同じことを何人もの方が別々なライブの印象として感じるはずがない。

 ではあの晩、私は何を聴いたのか。あのライブで体験したこと感じたことを整理してみようと思う。その中からきっと今年のツアーのテーマが浮かび上がってくるにちがいない(と私は信じているのだが・・・)

 4月21日、クラブ・ザ・モンキーで私は何を聴いたのか。

 あの晩の演奏曲目についてはすでに書いた。あの晩の演奏が前半と後半では全く違うものであったこともすでに書いた。その後半は基本的には「私の知っている加奈崎芳太郎の世界」であったことも書いた。そこで、ここでは特に前半の演奏について語ろうと思う。

 あの晩の加奈崎さんの前半の演奏はそれまで私が聴いてきた加奈崎さんの演奏とはまったく異質なものだった。それをもし一言で表現しろと言われれば、「抑制されて洗練された完璧な演奏」というしかない(取りあえずはそんなつまらない言葉しか思いつかない)。加奈崎さんはそれを「フォークソングの神髄」と言っていたが、私はむしろそこにブルース(といっても泥臭くない奴)やジャズを感じていた。だからそれを「極めてアダルトな演奏」と表現することも可能かもしれない。

 加奈崎さんは例によって「俺はこんなことも出来ちゃうんだぜー。」といったお茶目な発言をしたり、「さあ、ツルッとやってツルッと帰ろう」と言っていたが、一見(一聴?)すると、それは本当に「ツルッと演っている」かのようだった。それほど、加奈崎さんの演奏には余裕が感じられた。その余裕は、ほどよく抑制され完璧にコントロールされた演奏によって生み出だされたものであった。

 加奈崎さんが最初に手にしたギターは柳吉だった。マーチン000−28というギターがどんな特性を持ったギターなのか解説できるほど私はギターに詳しくないが、それがギブソン社のダブよりは音量が小さく、低音部があまり強調されず、繊細な音を出すギターだということぐらいは分かる。アルマジロバンドの圧倒的なパワーの余韻の中、加奈崎さんはあえてその柳吉を手にしたのだ。繊細なギターとのアンサンブルを考慮すれば、その演奏に乗せる声も当然抑制気味となる。
 目一杯の音量でギターをかき鳴らせば、それに対抗してボーカルも声を張らなければならない。逆に絶叫しようと思えば、ギターの音量も大きく設定しておかなければならない。それは卵が先か鶏が先かみたいな話だが、とにかくギターの音量とボーカルの音量には相関関係がある。ということは、柳吉を手にした時点で、加奈崎さんは「今日は抑え気味に演奏する」と心に決めていたことになる。「80%の力で演奏している。」何を根拠に80%というか突っ込まれると困るが、私はそう感じてしまった。

 このことを、「喉の調子が最悪だったのでそういう抑制した演奏しか出来なかった」と言うことも当然出来る。しかし、何度も言うように私はそういう表面的な理解をここでは採用しない。後半の加奈崎さんは喉に負担のかかる曲にも挑戦していたからだ。飢えた虎を目の前にした状況を人は、「私は飢えた虎に食べられてしまう可哀相な存在だ」ととらえることも、逆に「飢えた可哀相な虎に我が身を与えてやろう」ととらえることもできる。客観的に見ればたったひとつの状況であっても、受け取る人の心の有り様によってその意味は如何様にも変質するのだ。変な例だがこれはそういう問題なのだ。

 アコースティックギターで演奏する加奈崎さんを聴くのがはじめてであったわけではない。私は、昨年のジャンジャンでの「古井戸2000」ライブとユーペンハウスでの「ノンPAノンマイク」ライブで聴いている。しかし、そのふたつのアコースティックギターによる演奏とこの晩の演奏は全く違っていた。「古井戸2000」の時はギターの弦を切りまくるような壮絶な演奏であったし、ノンPAノンマイクの時もマイクがないことを忘れさせるような輪郭のはっきりした演奏であった。どちらも心の中のメーターを振り切ろうとするかのような、100%をはるかに越えた演奏であった。そのためなのだろう、ギターもダブがメインであった。ところが、今日は柳吉である。しかもマイクがある。

 「天然の進化」「いつまでも若いままで」「イーストオブタウン」と聴き進むうちに、私は今日の演奏が私がはじめて耳にする「もうひとつの加奈崎芳太郎の世界」だということを理解した。
 「ライブの前半はいつだって悪戦苦闘している。」と加奈崎さんが語ったのを聞いたことがある。私はそれを勝手に、『ライブの中心は後半の「神懸かり」的な演奏にあるのであり、その「加奈崎芳太郎」が降りてくる瞬間に向かって、そのきっかけをつかむためにライブの前半は費やされるのであり、ある意味で前半の演奏は「捨て駒」のようなものだ。』と理解していた。もちろんそれは誤解に違いないのだが、3年前に再会して以来私が聴き続けてきた加奈崎さんの演奏には、そんなふうな誤解をしてもいいのではないかと思わせるようなところがあった。それほど後半のある瞬間からの演奏はテンションが高く、圧倒的で、とにかくもの凄いものだったのだ。

 ところがあの晩の演奏はそうではなかった。それは決して「捨て駒」でも「前菜」でもなかった。それは見事に抑制され、洗練された完璧な演奏であった。それは後半部の演奏を聴いてそれと比較するまでもなく、完成され完結した世界であることが分かった。
 だから私は初めて耳にする「もうひとつの加奈崎芳太郎の世界」を前にして、とまどいを覚える間もなく参ってしまった。すっかり虜になってしまったのである。生意気な言い方であることを省みず正直に言えば、その時私は「悪くないじゃない。全然OKじゃん。いや、もしかしたらこれは凄いことなのかもしれない。」と心の中でつぶやいていたのである。

 前半の演奏、取りあえず「もうひとつの加奈崎芳太郎の世界」と名付けた演奏がどういうものであったか上手く言い表す言葉を私は持たない。前回書いたことが精一杯だ。だから、一曲目の「天然の進化」の時の加奈崎さんはこんな感じで・・・などと思いだしながら逐一書いてみてもほとんど意味のある文章にはならないだろう。

 もし付け加えることがあるとしたら「ケージアンソング」の後だったかのMCで「カーターファミリーピッキングを弾かせたら、なぎらけんいちか加奈崎芳太郎か・・・」といったトークがあったことぐらいだ。そんな軽口が出るくらいにあの晩の加奈崎さんのギターワークは冴えていた。ギター小僧でなかった私にはそれ以上詳しいテクニック解説は出来ないが、わざと歪ませるほど強く弾く音、わざと消す音、明瞭なベースライン、正確無比なカッティング、そういうテクニックが自由自在に駆使され胸の空くような演奏であった。「80%の力の演奏」ということを私は言ったが、それはヴォーカルばかりでなくギターワークにも当てはまることである。抑え気味に、あるいは軽く演奏するということが、逆にどれほど豊かな世界を生み出すことか。私はその事実に圧倒されたのであった。

 というわけで、その晩の前半の演奏がどのようなものであったかをこれ以上直接的に語ることは出来ない。しかし以下のような話で類推してもらうことは出来るかもしれない。

 これはこのBBSにも書かせてもらったことだが、あの岡谷ライブのあと私は『酔醒』の「遙かなる河」と「人生に幸多かれ」ばかりを繰り返し繰り返し聴いていた。あの晩聴いた「いつまでも若いままで」「イーストオブタウン」「ケージアンソング」「目が覚めねー」「酒はよき友」といった歌の音源を私は持っていなかった。しかし何とかしてあの感じの加奈崎さんをもう一度聴きたい。そう思って手持ちの音源をひっくり返して行き当たったのがこの2曲だったのである。
 抑え気味に歌うということだけだったら他にもいくつもの曲がある。「天然の進化」や「ブルースカイ」なら音源を持っている。しかし、なぜかどうしても「遙かなる河」と「人生に幸多かれ」であった。『酔醒』には「ステーションホテル」や「黄昏マリー」も入っている。しかしそれらは微妙に何かが違った。「黄昏マリー」の方は、それでも「こんな感じだったかもしれない?」と思えたが、「ステーションホテル」はなぜか全くイメージではなかった。その差が何であったのか。加奈崎さんの作品であるかどうかなどというレベルを越えた何かを私は感じていたのだと思う。

 この話には後日談がある。4月から5月にかけて来る日も来る日も「遙かなる河」「人生に幸多かれ」を聴き続けているうちに、私は「ピアノの伴奏で歌う加奈崎さんを何が何でも生で聴きたい。」と思うようになった。もしかしたらピアノをバックに歌う加奈崎さんと、マーチン000−28を弾きながら歌う加奈崎さんに共通するものを感じていたのかもしれない。
 その想いは、ファイナルライブに向けての打ち合わせの中で急速に高まった。木下(知らない人に説明しておくと、昨年のGrand Finalに引き続き、今年もTHE FINALを主催する男である)との二人きりの打ち合わせの席で、昨年の「古井戸2000」のようなスペシャルな何かがほしいというところから始まった話は、加奈崎さんにバックを付けられないだろうかとか、スペシャルゲストに誰か呼んだらといった話を経て、ピアノをバックに歌う加奈崎さんをぜひ聴きたいということで一致した。
 二人は、加奈崎さんもこの話を喜んでくれるに違いないと思った。私などは、これで今年のファイナルは決まりだとさえ思った。そこで加奈崎さんにこのプランを提案した。ところが加奈崎さんは難色を示し、それ以上この話を進めることを認めなかった。それは私にとってやはりショックだった。4月21日の岡谷ライブ以来、「遙かなる河」「人生に幸多かれ」を経て、ピアノ伴奏で歌う加奈崎さんへと幻想を広げていた私は、てっきり加奈崎さんも同じような気持ちでいると思いこんでいたからだ。私の感性も当てにならないな。そう思った私はライブレポートを書き継ぐことが出来なくなってしまった。これが5月の末のことである。
 ところが、「ファイナルでピアノと演るつもりはない。」と言い置いて旅立ったツアー先の北海道で加奈崎さんはピアニストの豊口健さんとのセッションを行ったのである。それは私にとってどう受けとめていいのか分からない、とんでもない出来事であった。それはないでしょうという気持ちと、そのセッションを聞くことが出来た人への嫉妬心で私の気持ちは千々に乱れた。スイスに戻った加奈崎さんにそのことを問いただすと、予定していたわけではないが成り行きでそういうことになったというような話であった。ピアノと演る積もりはないと言ったじゃないですかと問うと、「そんな話したか?」と言われてしまった(加奈崎さんは本当にすごい人で、人の話を本当にきれいさっぱり忘れることがあるのだ)。これが7月のことである。
 それから日が経ったいま言えるのは、木下と私の提案を加奈崎さんが明確に拒否し、しかもそのことを本当にすっかり忘れていたとしても、その直後に北海道で健さんのピアノとセッションしたということは、潜在的に加奈崎さんの中にそういう必然性が形作られていたのではないかということである。つまり、あの晩のライブについての私の解釈もまんざら間違っていなかったのではないかということを言いたかったのである。
 
 これも後の話だが、加奈崎さんに『酔醒』の歌唱法について直に尋ねてみたことがある。どういう話の流れの中でだったか忘れたが、おおよそ以下のような会話だった。
 『「ステーションホテル」はイメージの中ではものすごく朗々と歌っている気がするのに、CDをあらためて聞くと極力声を抑えていますよね。あれはどういうわけですか。』
 『楽器がちゃんと鳴っていると俺は大きな声を出さなくなるのだ。いい音が鳴っていればいるほどその音に埋もれていればいいと思うらしいのだ。それでしっかりバックバンドをつけると無意識のうちに声を抑えてしまうのだ。』
 『でもミニアルバム「冬の夜の深さについて」の中の「ひつじかいの歌」ではバックが付いているのに目一杯歌っているじゃないですか。』
 『あれは、重ね取りだったからな。一番気を使うのはピアノと演るときだ。絶対音を持った楽器と演るときはごまかしが利かないからな。』
 こんな話を聞いてしまうと、どうしても4月21日の演奏と結びつけて考えたくなってしまう(いま気付いたのだが、加奈崎さんがファイナルでピアノとの共演を拒んだ理由は、まさにこのことが原因だったのかもしれない。その音色がどういうヴォーカルを引き出すかということとは別に、絶対音を持つピアノと演ることは喉を痛めている加奈崎さんにとっては最も誤魔化しの利かない状況に自らを追い込むことだったのかもしれない)。

 さらなる後日談だが、私は今年加奈崎さんの幻のアルバムを聴く機会を得た。具体的には、古井戸の「サイド・バイ・サイド」と「愛がもしすべてなら」からシングルカットされた4曲と「風の生き方」と「12th fret」である。それら一枚一枚の感想を書くことは今の目的ではないので別の機会に譲るが、ともかくそれらを発表順に聴いて行って「12th fret」に至ったとき、私はもの凄い衝撃を受けた。それは、4月21日に「もうひとつの加奈崎芳太郎の世界」に触れて以来探し求めていた音楽がそこに丸ごとあったからだ。(「12th fret」というアルバムはもの凄いアルバムである。本当はいまその凄さについて語りたくてうずうずしているのだが、それを語り出せば話がどんどん逸れていってしまうのでここでは我慢する。)

 なぜ私がここまでこんなとりとめもない話をしてきたのか。それは4月21日の岡谷ライブで私が何を聴いたのかということを少しでも分かってもらいたい、感じてもらいたいと思ったからだ。直接伝えることが出来ないならば間接的にわかってほしいと思ったからだ。どうだろう、少しは何かが伝わっただろうか?

 前回の文章の中に誤解を招くような表現があった。「12th fret」というアルバムの中に「探し求めていた音楽が丸ごとあった」という意味は、聴きたかった歌がそこに収録されていたといったような直接的な意味ではない。曲調とか歌唱法とかいうものを含む歌の雰囲気が極めて似ていたということである。悪しからず。

 今年も加奈崎さんとその歌に関して多くの文章が書かれた(私は個人的には捧げられたと言いたいが)。その中でずーっと心にかかっていた文章がある。それは私に「この文章を乗り越えない限り先に進めない。」と思わせた文章である。いや、私などには乗り越えることは無理かもしれない。ならばせめてその件に関してはこういう考え方もありうるという異論だけでも示さなければならない。私はその文章を読んで以来そう思い続けてきた。
 その文章とは、北海道芦別市のディランのマスター(すみません。お名前を存じ上げない)が6月17日の加奈崎さんのライブのレポートとして書かれた文章である。しかし、それはレポートなどではなく完全に評論の域に達していると私は思う(この文章は今でもディランのHPに掲載されている。このHPからでもliveページ経由で行くことが出来る)。
 私はこれから、そのディランのマスターの文章を受ける形で自分の考えを述べてみようと思う。多分、ディランのマスターが感じたことと似た何かを私は4月21日に感じていたのだと思う。だが私は、結論を別のところに置こうと思っている。それは決して反論しようとか、いちゃもんを付けようと言うことではない。私はマスターの文章に触発されたのである。あの文章がなければこれから述べようとしている私の考えは生まれてこなかっただろう。その意味でディランのマスターに感謝申し上げたいと思う。

 こう書いてすぐにその文章がさっと掲載できるとカッコイイのだが実はまだ書きかけなのである。それが完成するのが今晩なのか明日なのか見当もつかない。お待ちの方がもしいたら、その間にディランのマスターの文章をもう一度チェックしてみて下さい。ということで後ほど。

 4月21日の岡谷クラブ・ザ・モンキーライブでの「もうひとつの加奈崎芳太郎の世界」との出逢いによって初めて気付いたことがある。思い知らされたという方が適当かもしれない。それは、途切れることなく加奈崎さんをフォローし続けて来られた生粋の加奈崎ファン(フリーク?)の方にとっては当然のこと、常識なのかもしれないが、3年目に加奈崎さんに再会したような新参者のファンである私にとっては全くの新発見であった。それは2つあるのだが以下のようなことである。

 ひとつは、これまで私が「加奈崎芳太郎本来の演奏」だと信じていた「私の知っている加奈崎芳太郎の世界」が、ジァンジァン閉店という特別な状況の中で生まれた特別な演奏だったということである。具体的にはカウントダウンライブが行われた1999年と30th anniversary tourが行われた2000年に限ってあのような壮絶なライブが行われたのだ。このことをディランのマスターは「それは、大脳新皮質の活動が弱まったために起きたファンタスティックなアクシデントであった」「あの場にいたものだけが体験できた至福の瞬間だった」といった表現で語っている。
 もうひとつは、これまで私が本来の演奏だと信じていた加奈崎芳太郎の世界が、GRAND ARM(あるいはその前身である加奈崎ユニット)を経ることによって確立された世界であり、その加奈崎芳太郎史上最もハードな演奏スタイルが30年間変わらぬ加奈崎芳太郎のスタイルだったわけではないということである(誤解してほしくないのだが、私はスタイルのことだけを言っているのである。そのスピリットは30年間一貫していたとしても、演奏のスタイルはそれこそfluid(流体)として変化し続けてきたはずだ)。

 なーんだそんなことかと言わないで欲しい。これは3年前に加奈崎さんに再会した私のような人間にとっては非常に重要な発見なのである。多くの場合、人は自分が出会ったときの相手の印象に支配され続ける。最初の印象が強烈であればあるほど、ますます別の見方はできなくなる。加奈崎さんはまさにそういう存在であったのだ。

 3年前に再会した時から私が見続けてきた加奈崎さんとは、タレントにも仙人にもならず、あくまでも現実世界に踏みとどまり、どろどろした自分をさらけ出し、時代に抗ってトンガリ続け、もがき、あがき続けるロックの魂をもったフォークシンガーであり、その果てに「『歌う思想家』『絶叫する哲学者』とでも呼ぶしかないような高みに突き抜けた孤高のミュージシャンであった。しかし何よりも、限界も欠点も何もかも含めた自分のありのまますべてを、全身全霊を傾け命を削るように告白することのできる、重大な覚悟と強靱な意志をナイフのように呑んだひとりの強烈な人間存在であった。
 そして、そこに至る過程において加奈崎さんは破綻なくきれいに歌うことを放棄してしまったように見えた。「歌にとって真に大切なものは歌唱技術や演奏技術などではない。大切なのは歌うという行為によって何を伝えようとするのかということであり、己の声と演奏を用いて表現される魂の有りようである」直接そんな言葉を加奈崎さんから聞いたわけではない。しかし私が加奈崎さんの歌から受け取ったのは、歌うということに対するそんな決意であった。
 また、ステージ上の加奈崎さんは、自らの肉体を酷使し、精神を追いつめ、極限までテンションを高め、ひたすら「加奈崎芳太郎」が降りてくる瞬間を待っているかのようであり、そのためにすべての虚飾を拒否し、自らを禁欲的に律している姿はまるで求道者のようであった。それは、まさに魂そのものをつかみだしてごろりと投げ出して見せるようなことであるが、それこそが加奈崎さんの歌であった。この感じを最も的確に表現したのが、はしもとはじめさんの「鉄の歌。石の歌。」というコピーなのだと私は思う。

 私の再会した加奈崎さんとはこんな存在であった。もしこの感じを、一言で言えと言われたら私は「凄い」と言うしかない。そんな強烈なライブに突然出逢って、しかも短期間に何度もそんなライブを体験したとしたら、この状態がずっと前から変わらずに継続してきたと誤解したとしても致し方ないことだろう。
 だから私は4月21日に「もうひとつの加奈崎芳太郎の世界」に出逢うまで、加奈崎芳太郎は30年間ずっとこんな熱さ、重さ、激しさ、厳しさで歌い続けて来たのだと思いこんでいたのである。
 これはおかしな話である。私は長い中断はあったものの70年代の加奈崎さんを知っている。古井戸時代だけでもどれだけ歌が変化し、それがどんな方向に変化していったか知っていたはずだ。それなのにそう思いこんでしまった。これはほとんど洗脳されたに等しい。もちろん加奈崎さんが意図的に洗脳したわけではない。加奈崎さんとの強烈な出逢いによって自分で自分を洗脳していたのだ。そしてその洗脳は、加奈崎さん自身によって「もうひとつの世界」を提示されることによって初めて解かれたのである。

 私は4月21日、熱く、重く、激しく、厳しい、以外の加奈崎芳太郎の存在に気付いた。それは思い出したと言ってもいいかも知れない。それは前から目の前に有ったのだ。しかし私の目にそれは入らなかった。私はそれを見ようとしなかったのだ。しかし気付いてしまった。その結果見えてきたのが最初に言った2つのことなのである。それぞれについてもう少し詳しく述べてみたい。

 1999年、2000年という年が加奈崎さんにとってどういう年であったのかということについてこの場所で多くを語る必要はないだろう。しかし事情を知らない人のために一応触れておこう。一言で言えば、加奈崎さんは歌を続けられるかどうかという瀬戸際にいたのだ(2000年の30th anniversary JAPAN TOURがどういうものであったのかということについては、昨年のGrand Finalのパンフレットに少し書かせてもらった。このHPのgoodのページにパンフレットが紹介されているので事情を知らない人はそれを読んでほしい)。 30th anniversary JAPAN TOURは、北海道から沖縄まで全国70ヶ所以上を巡る旅であった。しかも加奈崎さんは愛車にギターを積み込み単身全国を回ったのだ。50歳を越えたミュージシャンにとってそれがいかに過酷なものであったかは想像に難くない。
 しかし、加奈崎さんは一ヶ所たりとも手を抜かなかった。全てのステージを全身全霊を傾け命を削りながら勤め上げた。見てきたわけでもない者になぜこんなことを言えるのかというと、そのツアーが「もしかしたらこの旅の終わりがミュージシャン加奈崎の終わりになるかも知れない」と覚悟しながらの旅だったということを知っているからだ。
 これが最後かも知れない、この町で、このハウスで、この人々の前で歌うのはこれが最後かも知れないと心に決めている者が手を抜いたりすると想像できる人がいるだろうか。悔いを残すようなパフォーマンスをその場所に残して来られるだろうか。
 ましてやこのツアーは自ら望んだツアーである。自らライブハウスに連絡を取りスケジュールを調整して出発したツアーである。しかも全ての会場で大歓迎を受けたというわけでもない。観客のアベレージは20人弱。和歌山ではたった一人のファンの前で演奏したという。千葉ではおしゃべりを止めない観客を怒鳴りつけてしまったという。九州では心ない観客の行動にひどく落ち込んだという。そんな思いまでして「聞いてくれる人と聞きたい人の住んでいる街へ自分の体と想いを運び唄う」ことにこだわり続けた旅だ。
 きっと加奈崎さんはどの会場でも最高のパフォーマンスを人々の記憶に止めようとしたはずだ。持てるもの全てを余すところなくさらけ出そうとしたはずだ。そのために肉体も精神も極限まで追いつめたはずだ。その結果があの殺気と異常なまでのテンションの高さを生んだのではなかったか。聴く者をノックアウトし、「俺はこんなところにとどまっていていいのか?」「私はこのまま終わってしまっていいのか?」と反省を促すことになったのではないか。しかも恐ろしいことに、その精神の異常なまでの緊張と昂揚は一年間途切れるなかったのである。

 1999年の加奈崎さんについて私は多くを語れない。何しろジァンジァンのカウトダウンライブを一回も聴いていないのだから。しかし、この年のライブのテンションがとんでもなく高いものであったことは、次の加奈崎さんの文章が如実に語っている。ちょっと引用してみよう(新生・スイス通信 00,1/3)  

 「ジアンジアン」Liveをこなし、やっとスイスに帰りつき記憶が戻ったのはクリスマス25日の午後、感情の記憶は確かにあるのだが、出来事や時間の記憶はほとんどなかった。どうやって“赤い馬”を乗りこなしたのかもよく思い出せなかった。去年4回の“カウント・ダウン”1回目からその兆しはあったのだがラストは特に激しかった。自分でも思わぬほどだ。やっぱりあの「ジアンジアン」と云う舞台や時間は俺にすべてを吐き出すことを要求する場所であったようだ。日本中で行われる俺のLive、お客が一人だろうが、それが一万人だろうが、大都会だろうが、ド田舎だろうが、俺にとってはどこも同じテンションでやっているつもりだったのだが、あの日のステージは俺の想像を越え、キャリアもテクニックも感情も越えた。存在そのものを要求されたものだったと今思う。

 私は最後の「古井戸2000」ライブには滑り込みで間に合った。だからジァンジァンという空間が加奈崎さんにとって特別な空間だということは分かっているつもりだ。だから「同じ」とは言わない。しかし、ジァンジァンほどではなかったとしても、1999年から2000年の末まで加奈崎さんは絶えずこれに近い状態にあったのではなかったのかと私は思う。
 そしてこの時期の加奈崎さんに出会った人は、加奈崎さんが30年間常にこんなテンションを維持し続けていたと思い込んでしまったのだと思う。しかし、それはこの時期の加奈崎さんと出会うことが出来た人だけが体験できた幸運だったのだ。

 あんなテンションの高さが長期間持続するなどということは、普通にはありえない。それが可能であったのは、「これで最後かも」という想いが加奈崎さんの中にあったことと、Grand Finalという明確な終わりが設定されていたからに違いない。01,1/2付けの「スイス通信」で加奈崎さんはこんな風に書いている。

 ひとつだけ確かな事は俺はこのツアーで最後かもしれない、最後でもいいと思っていたのだ。そう覚悟しなければスタートできなかったのだ。そして自分も誰れかも、心も体も、ころす事なくひたすら最後にたどりつこうと願っていた。

 そして加奈崎さんはたどり着いたのだ。終着点と自ら定めた場所にたどり着き、終わりを受け入れた。「終わり」と言うべきではないか。ここで一区切りとし、あとはゼロからの再出発と決めた。だからその瞬間に、加奈崎さんからあの異常なまでの昂揚と緊張が去った。憑き物が落ちるように去っていった。それと同時に恒常的にハイな状態にあることで限界を越えて酷使され続けてきた肉体と精神が一気にどん底に落ちた。あるいは壊れた。それはある意味で当然のことである。
 これは加奈崎さんが、2000年の終わりを30年間のキャリアへの確信とシンガーとして残された時間への自信を胸に迎えることが出来たということとは関係がない。そういうものを持っていたからといって、どん底に落ちることを回避することはできなかったはずだ。これまで築き上げてきたものをすべて解体し白紙に戻すこと無しには、真に新しい何かを築き上げることは出来ないというのは、たぶん普遍的な真理であろうから。

 問題はそのあとである。どん底から回復したときに、再びあのテンションの高さに戻れるかということである。私はそれは不可能だと思う。「ジァンジァンが無くなり30年来の拠点を失い、歌を歌えなくなるかも知れない」ということに匹敵するような極限状況や動機付けが今の加奈崎さんにあろうとは思えないからだ。
 かえってこの2年の悪戦苦闘を通じて加奈崎さんが手にしたのは、決して多人数と言うわけではないが心から加奈崎さんと加奈崎さんの歌を愛し、手弁当でその活動を支えようとする日本全国のファンとそのネットワークであった。それは加奈崎さんに勇気を与えるものであって、決して絶望に誘い込むものではない。1999年〜2000年の異常な昂揚と緊張が「新たな観客と場所を得られなければ歌をやめるしかない」という極限状況から生まれたものだとするならば、加奈崎さんは全く逆の状況を手に入れたことになる。

 そんな状況の中で加奈崎さんに昨年までのようなテンションを求めるのは無い物ねだりであるというのが私の考えである。なぜなら、ああいう異常なテンションを発揮しなくていい状況を生みだしたのは私たちファンなのだから。私たちは、この状況の中で自然に生まれ出てくるものを待てばいいのだし、そうするしかないのだと思う。異常なテンションが失われることにより、加奈崎さんの歌から、熱さ、重さ、激しさ、厳しさ、あるいは殺気といったものまで消え失せるかというと私はそんなことはないと思う。ただし、その質は微妙に変質するのかもしれない。

 私は1999年から2000年にかけての加奈崎さんと出会い、そこになにがしかの関わりを持てたことを幸運に思う。私の勝手な考えではあるが、それをこの2年間だけしか存在し得なかった特別な演奏だったと規定してみれば尚更である。だからといって、失った子の年を数えるようにその二度と再現されることがないだろう演奏を追い求めるのは止そうと思う。なぜならもうすでに加奈崎さんが「もうひとつの世界」を提示してくれたのだから。

 やっとこれでディランのマスターの文章に関わって書きたいことの半分を書いた。ここまではディランのマスターの言っていることとほとんど変わらない。もしかしてこの先も同じことになってしまうかもしれない。それは書いてみなければ分からない。

文書を書き継ぐために読み返したら、そこに書いたことをもう少しどぎつい言い回しで表現する欲望を抑えがたくなった。まとめとしてその文章を掲載するのも一興かも知れない。

 いま私たちは、加奈崎さんが歌い続けようと決意し、実際に音楽活動を継続している時点から振り返って1999年〜2000年のことを思っている。だからどうしても加奈崎さんが歌を断念するという状況を、あり得たかも知れない一つの可能性、実際には起こらなかった仮想の出来事だと片づけがちだ。
 しかし私はその可能性はかなり高かったのではないかと思っている。もし、1999年に加奈崎芳太郎ファンクラブと、このHPが立ち上がらなかったら、もし2000年に加奈崎さんの居住地スイスで年間5回ものライブをしかもさまざまな形態で開催するという無謀な計画が実行されなかったら、もし30th anniversary JAPAN TOURでのさまざまな劇的な出会いがなく、日本各地で熱狂的なファンが立ち上がり自主企画ライブを実現したりその種を蒔いたりしなかったら、いったいどうなっていただろう。それらは偶然の積み重ね、奇跡的な出会いの集積であり、一つ歯車が狂えば何一つ起きなかった類のものである。そしてそんな結末も十分あり得たはずだ。
 思い浮かべてみてほしい。誰からも顧みられず、誰からも理解されずに全国を巡り続ける加奈崎さんの姿を。「この旅の終わりがミュージシャン加奈崎の終わりだ」ということを冷酷な事実として受け入れざるを得ないような旅を続ける加奈崎さんの姿を。
 その時、その旅の中で歌われる歌はどんな意味を持ち得るのか。

 「遺言としての歌」

 私の脳裏にそんな言葉が浮かんだ。もしも、歌を諦めざるを得ないような状況が重なり、加奈崎さんの脳裏に「引退」の二文字が不可避な結末として刻印されるようになり、それでもツアーが続くとしたら、それはまさに自らのミュージシャンとしての遺言を全国各地に残し置いてくる旅となっただろう。日本全国のあらゆる土地のあらゆる人々にミュージシャン加奈崎芳太郎として今生のお別れをする。歌への未練を断ち切るために、思い残すことがないようにと持てる全てを観客の前で洗いざらい吐き出してゆく。
 そんな歌が聴くものに何事かを伝えないはずがない。そのとき歌は歌であることを越え、魂に直接働きかける根元的な問いとなる。送り手と受け手の魂の有様をあからさまにし、時として聴く者の人間存在を脅かす凶器とさえなる。そのことを凄味といっても、殺気といっても、狂気といってもいい。逝くものからい生き長らえるものへのメッセージとしての歌。断末魔の叫びとしての歌。そういう尋常ならざる何かが1999年から2000年末にかけての加奈崎さんの歌にはあった。
 幸いにして加奈崎さんはそちらの方向に転落していくことはなかった。ツアーが進むにしたがって確かな手応えを感じるようになったかも知れない。だからいま私たちは仮の話しとしてその可能性について語ることが出来る。しかし、そういう可能性と背中合わせのものとして加奈崎さんの旅はあったのだ。そのことを私たちは忘れてはならないと思うのである。

 導入のつもりがついつい語りすぎてしまった。今回語るつもりであったことは次にしよう。

 1999年から2000年末にかけての加奈崎さんの歌には「ジァンジァンがなくなり30年来の拠点を失い、歌を歌えなくなるかも知れない」という極限状況とそこから生み出された負のエネルギーに起因する特別の凄味があった。それは暗黒のオーラのように加奈崎さんを覆い、聴くものの心を浸食した。
 そのとき加奈崎さんはミュージシャンとしての死と隣り合わせの場所にいた(と私は考えている)。しかし、自ら死を求め自暴自棄の消耗戦を戦っていたわけではなかった。
 私はかつてジァンジァンでのラストステージとなった「古井戸2000」ライブの印象を「加奈崎は今日のステージに命を懸け、異常な情熱を燃やしている。それは分かる。しかし、私にはそれが最終的にどこかに突き抜け、昇華されていく情熱とは思えなかった。消耗し、消耗し尽くし、最後は死に至る暗黒の情熱のようにさえ思えた。」と述べた。しかし、私はいまそれは間違いであったと言いたい。
 たぶん1999年から2000年末にかけて加奈崎さんは一度も「いま死んでもいい。ここで終わってもいい。」とは思わなかったはずだ。生と死の境目を、あるいは正気と狂気の境目を綱渡りのようにたどりながらも、決して死の側へ、狂気の側へ転落しなかったし、その誘惑を強い意志で断ち切っていたのだと思う。それは加奈崎さんが伝えるべき想いと遺さなければならない歌を抱えきれないほど持っていたからだ。伝えるべき相手に想いの全てを伝え尽くさない限り倒れるわけにはいかなかった。遺すべき歌をひとの心に刻印しないかぎり終われない。だから加奈崎さんは「最後にたどりつく」ことにこだわったのだ。自己満足では意味がない。伝わらなければ、理解して受け継いでもらわなければ意味がない。そのことを私は、「遺言」と表現してみたのだ。

 そんな歌に出逢ったとき聞き手はどうなってしまうのか。同じことを聞き手の側から考えてみよう。
 加奈崎さんのライブを体験した多くの人がその「凄味」に圧倒され、固まり、何か重たいものを受け取とってしまったような気持ちになった。いまわざと私自身の感じたことをあたかも普遍的な感覚のように言ったが、本当はひとりひとり受け取り方は違うはずだ。だからその理由として、加奈崎さんの歌が「遺言」と化していたからだという私の考えを押しつけるつもりはないし、その必要もない。大切なのは、そこそこの感性を備えた人間ならばそこに何事かを感じたのではないかということである。「凄げえ」「何だこれは」「とんでもねえ」・・・言葉になっても、ならなくても、よっぽど鈍感な人間でないかぎり、そこに尋常ならざる何かを感じたはずだ。日々消費されている音楽とは全く違うなにかがそこにあると感じたはずだ。これが入り口だ。たぶん多くの人はまずこんな具合に加奈崎さんの歌と出逢ったのではないか。
 ただし、その「凄げえ」のあとに、必ず「素晴らしい」「感動した」「評価する」「受け入れた」といった言葉が続くとは限らない。「凄げえ」・・・でも「重過ぎる」「暗すぎる」「息苦しい」「居心地が悪い」「嫌だ」という反応もあり得るだろう。なぜならその「凄さ」を受け止めるのはかなりの覚悟を要することだからだ。さらに「遺言としての歌」という考えに立てば、そんなものをホイホイ気軽に引き受けられる人などあるはずがない。誰だって二の足を踏む。
 ここにおいて加奈崎さんの歌に出逢ってしまった人は二種類に分かれて行くことになる。ひとつは、その出逢いを運命と受けとめ、加奈崎芳太郎という存在を丸ごと受け入れ、その想いを引き受け、必要とあらば自分のこれまでの生き方を変えようと覚悟出来る人。もうひとつは、それ以上踏み込むことによって自分のこれまでの生き方や生活(大概それは退屈な日常の連続なのだが)が根底から覆されるのではないかという恐れをいだき、加奈崎芳太郎から目を背け、あるいは拒絶してしまう人である。

 これが1999年から2000年末にかけての加奈崎さんの一般的な評価だったのではないか。あまりに強烈な存在となってしまったがために、絶賛か拒絶かという両極端の評価しかあり得なくなり、「熱烈に好きってわけでもないが絶対に嫌いってわけでもない。」とか「あってもなくてもいいが、あってもかまわない歌」といったあやふやな評価の居場所を消し去り、態度を留保し続けるような曖昧な観客の存在を許さなかった。白か黒か。YESかNOか。それが加奈崎芳太郎であった(このことについて98年以前もそうであったと言われると私は困ってしまう。その時期の加奈崎さんを知らない私は、少なくともこの2年は特にその傾向が強かったと言えないでしょうかと恐る恐るお伺いをたてるだけである。それも違うと言われると困ってしまうのだが、取りあえずはそういう前提で話を進めさせていただく)。

 しかし、このことが困った事態を招き寄せる可能性がある。
ひとつは加奈崎さんの絶対化。神格化といってもいい。丸ごと受け入れるか拒絶するかしかない選択を突きつけられて、丸ごと受け入れる決断をしてしまった人間というのは、その時点ですでに冷静な判断力を失っている。丸ごと受け入れるということは「絶対帰依」を意味するからだ。その時、加奈崎さんという存在とその歌は観察し分析的する対象でも論理的に批評する対象でもなくなる。ひたすら崇拝し称揚する対象となってしまう。こんな「判断停止」状態が健全な状態であるはずがない。そして多分わたしもそういう状況に填り込んでいた。加奈崎さんの演ることなら何でもOK。加奈崎さんがそういうのだから間違いはない。知らず知らずのうちに私もそんなうに自分で考えることを避け、加奈崎さんに判断を預け始めた。その結果、次第に加奈崎芳太郎論を書けなくなっていったのである。
 このことと極めて密接に関係するもうひとつの問題がある。それは加奈崎さんの評価の硬直化である。無批判な現状肯定は、現状は最高の状態にあり、これを維持することが最上の選択であるという誤った認識に人を導く。加奈崎さんは常に殺気を漲らせていなければならない。その歌はあくまでも熱く、重く、激しく、厳しくあらねばならない。穏やかな曲があっても構わないが、それは箸休めのようなものであり、最後には必ず狂気をはらんだテンションの高まりの果てに非日常の世界に突き抜けねばならない。もしそんなことがいつでもどこでも実現されるべきこととして期待されるとしたら、それはやはり異様なことである。そして私たち(少なくとも私)は、そういう罠に填りかけた。私自身のことでいうなら、自分が書いた加奈崎論に自らが縛られ窮屈な思いをするようになっていった。自分が作り上げた先入観によって、目の前の加奈崎さんを日々新たなる自由な存在として見ることが難しくなっていった。昨年のGrand Finlのころ私はしきりに「ひとりの観客としてライブを楽しめないスタッフの辛さ」を嘆いていたが、私が悩んでいたのは、本当は「自分が築き上げた加奈崎芳太郎像から自分が自由でない」ことについてだったのかも知れない。
 そんな私を解放してくれたのは、結局は加奈崎さんだった(次の展開への糸口を探しながら同じところをグルグル回っているということは、きっと言っていることに無理があるのだ。あるいはウソがあるのだ。皆さん眉に唾して読んで下さい)。

 仕方がない。ここで流れを無視して無理矢理話を展開させよう。

 私は、つい最近まっで、GRAND ARMを経て確立された演奏スタイルと、1999年から2000年末の加奈崎さんを取り巻く逆境に起因する異常なテンションの区別がつかなかった。それらは原因と結果、問と答えのように不即不離、渾然一体のものとしてあるのだと信じていた。崇拝者と化していた私は、それが別のものだと考える冷静さを持てなかったのである。
 しかし、「この旅の終わりがミュージシャン加奈崎の終わりになるかもしれない旅」に終止符を打ち、憑き物が落ちるように加奈崎さんから異常なテンションが消え失せると同時に、私たちは初めて冷静に状況を眺めることが出来るようになったのである。

 私は何を言おうとしているのか。それは例えばこう言うことである。加奈崎さんがおっ立て髪にサングラス、黒っぽい衣装というスタイルを確立したのは「キッス オブ ライフ」からだろう。そうすると、この10年加奈崎さんは基本的には同じスタイルでステージに立ち続けているということになる。では、スタイルが同じだからといってその音楽もまたこの10年間変わらなかったのかということである。アルバム「キッス オブ ライフ」の中で演奏される「Knife」と30th anniversary JAPAN TOURを通じて日本全国で演奏された「Knife」は同じ質のものであったか。フォークン・ローラーを名のりはじめたころの加奈崎さんの演奏とGRAND ARMを経た後の加奈崎さんの演奏は同じものだったのだろうか。といったことである。

 2000年12月17日のシネマレイクGrand Finalライブによって、加奈崎芳太郎の巡礼の旅は終わった。それは引退を賭けた旅であり、そこで歌われたのは「遺言としての歌」であった。幸いにしてその旅の終着点はミュージシャン加奈崎の終わりではなく、あらたな加奈崎芳太郎の始まりの場所となっと。
 しかし、それでも終わりは終わりだ。その終わりを受け入れた瞬間に、加奈崎芳太郎から異常なまでの昂揚と緊張が去った。過酷な旅を支えてきた何かが憑き物が落ちるように去った。
 だから、2001年4月にツアーを再開した加奈崎芳太郎から私たちが「歌を越えた何か」を受け取ることはなかった。いや、それは言い過ぎかも知れない。広く世間に流通し日々消費されている消耗品としての「歌」のレベルから言えば、その歌は今でも十分過ぎるくらいに「歌を越えた何か」だろう。しかし、1999年から2000年末にかけて私たちが出逢ったものこそが「歌を越えた何か」だとするならば、それはやはり「歌を越えた何か」だとは言い難い。
 では2001年の21th Century Japan Tourで加奈崎芳太郎は何を発信したのだろう。そして我々は何を受け取ればいいのだろう。
 それは歌だ、と私は言いたい。単純なことである。「歌を越える何か」が去ったとき残るものは歌だ。歌そのものだ。2001年、加奈崎芳太郎は歌そのものを発信した。だから我々は歌を歌として受け取ればいい。そういうことなのだと私は思う。

 ここからが前回からの続きである。
 前回私は、GRAND ARMを経て確立された演奏スタイルと、1999年から2000年末の引退するしかないかも知れないという逆境に起因する異常なテンションとそれが生み出した演奏は別なものだということを言った。さらに、そのことを出発点に演奏スタイルということについていろいろ言おうとした。

 しかし、その先を書き継ごうとして行き詰まってしまった。何度書いてもとてもここに載せられるような文章にはならなかった。それは、ほとんど笑い話のような話なのだが、私自身が「加奈崎さんの演奏スタイルの変遷」についてものが言えるほどの加奈崎ウォッチャーではなかったという事実に、そういう文章を書き始めてみて初めて気付いたからである。
 それはそうでだ。私はわずか3年前の6月に加奈崎さんに再会したような新参者のファンに過ぎない。それが30年間加奈崎さんを途切れることなくフォローし続けて来たファンにも了解してもらえるように加奈崎さんの演奏スタイルを解説できるはずがないではないか。
 もちろん拠り所としての音源はある。しかし、ある年にあるスタイルで音の記録を残したからと言ってその年のライブでも同様の演奏がなされていたという保証はない。これは加奈崎さんに直に聞いた話だが、「サイド・バイ・サイド」の頃の古井戸はライブではレコードとは全く違う実験的な演奏をしていたそうである。ということになればリアルタイムで皮膚感覚として演奏を見聞していたひとの話を聞く以外、私には何も言えなくなってしまう。
 この思いは、薫さんのGoodのページのフレンド・ナイトシリーズの更新を見てますます強くなった。「自我像」をひっくり返して見れば90年のところに確かに触れられてはいる。しかしそれだけでは何のイメージも広がらない。しかしこうしてチラシを見せてもらうと、それだけで私の知らなかった加奈崎さんの世界が、しかも極めて魅力的な世界があったことが見えてくる。だとしたらそれを体験した人と知りもしなかった人ではどれほど認識に差が生じることか。リアルタイムで体験しなかった人間がその時代のことについてものをいうというのはこのように危ういのだ(といいつつ、その愚を犯そうとしていたのは私なのだが)。

 と言うわけで、今回書こうと思っていたことを私は放棄しようと思う。ただし、それでは話が先に続かないので、述べようとしていたことの骨格とそこから導き出そうとしていた結論だけここに書いておこうと思う(笑ってやってください)。

@「キッス オブ ライフ」収録の曲の半数以上が1999年〜2000年にも重要なレパートリーとして演奏された。そのことから、90年代の加奈崎さんが一貫した演奏スタイルで通していたように考えるのは間違い(錯覚)である。
A同様に「古井戸2000」というアルバムの演奏が、1999年〜2000年の加奈崎さんの演奏がその質(精神?)において同じものであったことから、加奈崎さんが古井戸時代から一環した演奏スタイルで通していたように考えるのは間違い(錯覚)である。
B「自我像」によると加奈崎さんがサングラスをかけ髪をおっ立て出したのは87年からだというが、そのスタイルが始まった時期以降を演奏スタイルの面からもひと括りのものと考えるのは危険である。
Cこれも「自我像」によると加奈崎さんがロックに本気で取り組みはじめたのは84年のK2ユニット前後からだというが、そこをスタートにして加奈崎さんが一貫してフォークン・ローラーを指向してきたと考えるのも危険である。
D加奈崎さんは、古井戸解散後、ソロ活動と平行してさまざまなバンド活動やセッションを行ってきた。それらの活動の中でさまざまな音楽的実験が行われ(それはジャンルで言えばフォーク、ジャズ、ブルース、ロック・・・あとは何だろう?)などありとあらゆる分野に及び、それぞれが加奈崎さんの血肉となり、そこから重要なレパートリーも生み出された。したがって現在の加奈崎さんの音楽はそれらの多様な音楽の複合体としてあるのであり、決してひとつのジャンルで括れるものではない。
Eそのように考えると、1999年に私が出逢った加奈崎さんはGRAND ARM解散(活動停止?)直後の、そのスタイルを色濃く残した加奈崎さんだったということである。このことを逆にいうと、だからそのスタイルは絶対不変のものなどではなく、今後いかようにも変化しうるものとして、たまたまそこにあったということになる。

 1999年から2000年末にかけて加奈崎さんが表現しようとしていた思い(それを私は「遺言」といった)と、その時期に加奈崎さんが採用していた演奏スタイル(それを人々は爆音ライブと呼んだ)は見事に一致していた。あの時期の加奈崎さんの思いは絶叫という形でしか表現し得ないほどのものであったのだ。その結果そこにとんでもない緊張と昂揚が、さらには凄味、殺気、狂気が発生した。だから誰もがそれを渾然一体のものと理解し受け入れた。
 しかし、その極度の緊張と昂揚が消え、「爆音ライブ」というスタイルだけが残ったとき、その二つのものは密接につながってはいたがひとつのものでないということがはっきりした。このことが重要であると私は思う。

 1999年〜2000年の加奈崎さんの発していた「凄味」を評論できる人はいなかった。それは「歌を越える何か」から発生するものであり、人間の存在の根本に触れるような何かだったからだ。そのとき人に出来ることは丸ごと受け入れるか全面的に拒否するかだけであった。このことについてはすでに述べた。あるいはこれは人の死に臨むことに似ていると言えるかも知れない。そのとき人は言葉を失い黙り込むよりほかない。「歌を越える何か」に向き合うとはそういうことだ。
 しかし、「凄味」は消えた(この言い方は誤解を招くかも知れないが、これは引退せざるを得ないかもしれないという状況がもたらした凄味という意味だ)。「歌を越える何か」が消え、歌が残ったのだ。私たちはこのときはじめて歌を楽しむことが出来るようになったのだ。あるいは自由にその歌と演奏を評論できるようになったのだ。
 私は1999年〜2000年の加奈崎さんを表現するのに「凄い」あるいは「凄味」という言葉を使ってきた。これは意識して使ってきたのだが、私は「凄い」という言葉は音楽の良し悪しを論ずる言葉ではないと思う。それは音楽以前の、あるいは音楽以上の何かを音楽から感じ取った時に発する言葉なのではないか(その意味ではアルマジロバンドは凄かった)。誤解しないでもらいたいのだが、私はそのことを否定的に言っているのでも肯定的に言っているのでもない。事実としてそうではないかと言っているのである。
 私がここで言いたいのは、1999年〜2000年にかけて私たち(人を巻き込まずに私と言うべきか)が高く評価していたのは、本当に加奈崎の音楽だったのだろうか? もしかしたら加奈崎芳太郎という存在そのもの、生き方そのものを評価していたのではないかということなのである。そして、それに対応するように加奈崎さんの演奏にも完成度や熟練度よりもテンションの高さや殺気、狂気といった空間を支配する空気を期待していたのではなかったのかということなのである。
 そしてこれは私に関しては十分すぎるくらい当てはまることなのである。実は、今年の加奈崎さんの歌に強く感じながら、昨年はあまり感じなかったことがある。それは何かといえば、「美」であり「快」であった。音楽における美というと甘美なメロディラインを思い浮かべる人が多いだろう。加奈崎さんの歌はそういうものではない。はっきり硬派の音楽である。ぶっきらぼうでさえある。しかし、温かく穏やかで甘い美しさというものがあれば、逆に冷たく厳しい美しさというものもある。快について言えば、例え深刻な内容を持った歌であっても音楽である以上そこには必ずリズムがもたらす快感がある。メロディとリズムの生み出す抗しがたい魅力が音楽の重要な要素であり、加奈崎さんが表現しているのが音楽である以上、そこにもそういう快楽があったはずだ。しかし、昨年までの私はそれをあまり強く感じることがなかった。それはきっと、強烈な情念がそれらを覆い隠して見えないようにしていたということなのだと思う。存在していながら見えなかったのだ。
 今年、突如としてその魅力に気づいたとしたら、私たちはその魅力を素直に享受すればいい。加奈崎芳太郎の歌をひとつの音楽として楽しめばいい。ただし、あなたがそれを魅力的な音楽だと感じるのならば。

 実は前回までが、ディランのマスターの評論に触発されて生まれた部分なのであったのだが、なんだかとんでもなく竜頭蛇尾というか中途半端というか回りくどくてわけの分からないものになってしまった。しかもあまりに長くなりすぎたため、全体像をつかむのに私自身が苦労するようになってしまった(とにかく、新たに書き継ぐために前回までの部分を読み直すだけで1時間以上かかる)。しかしながら、それらを再整理しているような時間はもうない。というわけで、うしろを振り返らずに前に進もうと思う。あしからず。

 4月21日の岡谷クラブ・ザ・モンキーライブのMCで加奈崎さんがこんな話をした。

 井上陽水がかつてアンドレ・カンドレという名前で歌っていた売れなかったころ、古井戸もまだ世に出ていなかったころ、そのアンドレ・カンドレと古井戸をドッキングさせてセットで売り出そうといういう話があったという。それを聞かされたのはずっと後のことだったが、そんなことにならなくてよかったと思った。

 細部は忘れてしまったがおおよそこんな話だった。私はその話を聞いて想像をたくましくし、何とも不思議な気持ちになった。加奈崎芳太郎と井上陽水がツインヴォーカルで歌い、それにチャボのギターが絡むユニットが本当に出来ていたらどんなことになっていただろう。私は二人が声の大きさを競い合うようにしてハモる姿を思い浮かべてちょっとワクワクしてしまった。濃いなあ。間違いなく日本一声の大きい(うるさい?)グループとなったことだろう。

 これは冗談みたいな話だが、このことをきっかけに加奈崎さんを見舞ったミュージシャンとしてのいくつかの決定的な分岐点が思い出された。思い出されたといってももちろん私が直接見聞したわけではない。仄聞しただけのことであるが。
 例えば、加奈崎さんには業界の大物から演歌歌手になることを勧められ真剣に悩んだ時期があったという。それを断ったからいまの加奈崎さんがあるわけだから、その決断は私たちにとって有難いものだったわけだが、断りを入れたときその人から「この話を断ればどういうことになるか分かっているんだな」と言われたそうである。もしそのとき加奈崎さんが義理と人情のしがらみの中で業界的な生き残りを図っていたら、いま私たちはTVの中で堀内孝雄と同じような役回りを演じている加奈崎さんを見ていたのかも知れないのである。そこに浮かび上がるのは井上陽水とツインヴォーカルを歌う加奈崎さんを思い描くのとは違った意味でなんとも不思議でやるせない映像である。

 さらにいくつもの場面を勝手に想像することも出来る。もし、青い森の楽屋のドアを後の仲井戸麗市となる少年がノックしなかったら・・・ もし、RCサクセションとの出会いが彼らのデビュー前のことであり、所属の違いを気にせず自由に交流出来ていたら・・・ もし、チャボのRCでの活動いかんに関わらず古井戸が解散しないで活動を続けていたとしたら・・・ もし・・・ もし・・・

 こんな話にこだわっているのは、私が4月21日に加奈崎さんのもうひとつの「もし・・・」を聴いたような気がしたからだ。
 私が想像したのは「もし、加奈崎さんがフォークソングにとどまり続けていたら・・・ あるいは、変化の方向がGRAND ARMに至るロックではなく、洗練されてしゃれたジャズやブルースの方向であったら・・・」というものであった。
 加奈崎さんがおっ立て髪にサングラスに黒のレザーの上下といういつもの格好でなく、タキシードか仕立てのいいスーツをおしゃれに着こなしていたとしても、場所が地下倉庫風の殺風景なライブハウスでなく、シックなジャズバーなどであったとしても、あの選曲と演奏ならばそれほどの違和感はなかったのではないか。そんなことを思わせるほどあの晩の前半の加奈崎さんの演奏は洗練されたものであった(と私には感じられた)。
 加奈崎さんはそれを「フォークソングの神髄」といったが私はそこにジャズやブルースのエッセンスを感じた。といっても泥臭いブルースではない。それはソフィスティケートという言葉が似つかわしいような演奏であった。
 私はふっと、もし加奈崎さんが80年代にロックの方向に音楽性の舵を切らずに、古井戸の晩期の「サイド バイ サイド」の世界を引き継ぎ深める方向に進んでいたとしたらどうなっていただろうと考えた。もしかしたらちょっと悪っぽくておしゃれでアダルトな歌手として世間に広く受け入れられ確固たる地位を築いていたいかもしれない。あるいはバブリーなホテルのバーの小さなステージで上品ぶった客を相手にして日銭を稼ぐようなことになっていたかも知れない。ちょうど「飲んだくれジョニイ」のように。
 それはもうひとつの可能性としての加奈崎芳太郎の姿だ。私はパラレルワールドをのぞき見たような不思議な錯覚に陥った。チャボと出合わなかった加奈崎、陽水とハモっている加奈崎、古井戸を解散しなかった加奈崎、RCと一緒に大ブレイクする加奈崎、ジャズに行く加奈崎、ブルースにどっぷり浸かる加奈崎、パンクロックを極める加奈崎、そういう、あったかも知れない加奈崎と、あり得なかった加奈崎と、実際にあった加奈崎が私の頭の仲をぐるぐる回っていた。
 もちろんそれは幻想に過ぎない。幻想に過ぎないがそんなことを思ってしまうほどあの晩の前半の演奏は私が知っている加奈崎さんと違っていた。それはまさに「もうひとつの加奈崎芳太郎」であった。

 では加奈崎さんは「もうひとつの加奈崎芳太郎の世界」を提示することにより何を表現しようとしたのだろうか。「歌を越えた何か」ではなく「歌」そのものを加奈崎さんは表現しようとしたのだと私はいった。ならば「歌」そのものを表現するとはそもそもどういうことなのだろう。私はここからいよいよ「VOICE」の話がはじまるのだと思っている。

自分が最後に残したいのはVOICEだ

 かつて加奈崎さんはそう語った。その「VOICEを残す作業」が今年はじまったのだ。私はそう確信している。その話にたどり着くまでは私は倒れるわけにはいかないのだ。

 VOICEの話に行く前にちょっと後戻りをしたい。
 ディランのマスターのライブレポート(評論文)の中に次のような表現がある。

 今回のライブは、加奈崎の本能を理性が制御することが出来たライブのような気がする。「豊口健」というピアニストとのセッションや、力業とも思える選曲など、平均点を遙かに超えたライブではあったのだが、やはり一線を越えることはなかったといえるような気がする。
 これはあくまでも昨年のライブを体験してしまったものとしての、見解である。そして、加奈崎芳太郎にあまりに多くのものを求めるものとしての勝手な意見である。

 ここには遠回しにではあるが今年の加奈崎さんに対する失望感の表明がある。物足りなさといった方が適当だろうか。そして、これは1999年〜2000年にかけての加奈崎さんを聴いてしまった多くの人に共通した感想だったのではないかと思う。
 かく言う私も例外ではなかった。4・21の後半の演奏については本当に何と言っていいか分からなかった。ライブ終了後、加奈崎さん自身もものすごく不機嫌で、落ち込んでいるのが分かったから尚更であった。もし、そのときの思いを口にしてしまったら、たぶんディランのマスターのような思慮深い物言いではなくもっとストレートであからさまなものになってしまっていただろう。
 しかしそれは出来なかった。もしそれをしてしまったら加奈崎さんを否定することになってしまうと思ったからだ。だから私はライブレポートを書けなかったのだ。もし、そのライブ全体が後半のような状態であったら私は加奈崎さんにツアーの中止を進言していたかもしれない。そして加奈崎さんもそうしていたに違いないと思う。
 ところがそのライブには救いがあった。私が「もうひとつの加奈崎芳太郎の世界」と呼ぶ全く別な前半があったからだ。それは加奈崎さん自身がこのBBSに書き込まれたように、3オクターブの声が出ないなら2オクターブの声で表現出来る最高の歌を聴かせようとする試みであった。そしてそれは本当に何度も言うように素晴らしかった。
 しかし私自身の中にもテンパってテンパりまくって一線を越えていく爆音ライブの極地をまた聴きたいという欲望があった。前半の演奏の素晴らしさは認めるが、「加奈崎芳太郎が降りてくる爆音ライブ」と、「アダルトで洗練されたフォークソングの神髄」のどちらか一方を選べますよと言われたらやはり前者を選んだだろう。しかし、どう考えてもあんな異常な緊張と昂揚が再び加奈崎さんに訪れることはないだろうし、喉の調子も心おきなくシャウトできるような状態ではない。それを考えると前者を期待することは無い物ねだりだということにもなる。仕方がないから後者を選ぶかと言うようなことでいいのか。そんな言葉に説得力があるのか。私はどんな風にあのライブの感想をまとめたらいいのか本当に悩んだ。そこでライブレポートが書き上がらない言い訳をする度に「難解なライブだ」と言い続けたのである。

 しかし、今は違う。私は100%の自身をもって現在の加奈崎さんを肯定できる。11月10日の飯田キャンバスのライブを聴くと前半と後半のバランスが非常に良くなっている。あの晩も喉の調子はあまりよくはなさそうだったが、後半の爆音ライブ系の曲も、曲数を抑えてはいるものの見事だった。しかし、それよりなにより前半が素晴らしかった。これをそのまま引き継ぐならばTHE FINALでは、「フォークソングの神髄」と「爆音ライブ」がどちらも過不足なく楽しめることになるかもしれない。
 だが、私の今の正直な気持ちを言えば、現在の加奈崎さんが目指しているものを際立たせるために爆音ライブ系の曲をすべて外してもらいたいような気持ちなのである。そう思うほど今の私は「フォークソングの神髄」としての演奏に期待しているのである。
 そんな気持ちになれたのは、今年加奈崎さんが演ろうとしていることが「VOICEを残す作業」そのものだと気づいたからなのだ。
 
 もうひとつ落ち穂拾いを。
 私がロック&ロールに行かなかった加奈崎さんにこだわるのは、加奈崎さんの中の非ロック的な要素、非爆音ライブ的な要素の魅力に目覚めてしまったからに違いない。1999年〜2000年の加奈崎さんもシャウトしない曲を演っていた。しかし、いつ「加奈崎芳太郎」が降りてくるか、いつ一線を越えた演奏がはじまるか、その一瞬を聞き逃すまいと神経を集中するような偏った聴き方をしていた私には、シャウトしない曲は導入部、もしくは気分転換のような位置づけだった。これではその魅力に気づくはずがない。
 しかし気づいてしまった。気づいてしまってから手持ちの音源をあらためて聴き直して、私は「遙かなる河」と「人生に幸多かれ」の魅力を再発見したのだが、それ以外にもいくつかのことに気づいた。
 そのひとつは「キッス オブ ライフ」の位置づけである。1999年〜2000年のライブにおいてもこのアルバムの楽曲の過半が中心的なレパートリーとして演奏された。そのことから、このアルバムをフォークン・ローラー加奈崎の出発点だと考える人が多いようだ。かくいう私もそんなことを発言してきた。しかし、あらためて聴き直すとこのアルバムはロックへの指向よりもフォークソングへのこだわりがテーマだったのではないかとさえ思える。アコースティックギターとベースを中心として基本的にドラムスを使用しない楽器編成へのこだわりなどは誰もが気づくことだと思うが、私が注目したいのは加奈崎さんの歌唱法である。息と声のすべてを技巧なしに叩きつけてくるような1999年〜2000年の演奏とは明らかに違う。GRAND ARMを通過することにより加奈崎さんの歌唱法は明らかに変わったのだと思う。
 これを「12th fret」「シング ユア ライフ」「冬の夜の深さについて」「さらば東京」という前後のアルバムとの関係の中で聴き比べてみると、「キッス オブ ライフ」が「12th fret」から直につながるアルバムであることが分かる。その間に8年間のブランクがありながら、この二つのアルバムにはその時間的距離を感じさせない色濃い共通性を持つ。それは曲調、編曲などは随分と変化しているにも関わらずである。それは「キッス オブ ライフ」と「シング ユア ライフ」「冬の夜の深さについて」の関係よりも遙かに共通性が大きい。私見では、それは加奈崎さんの歌唱法に大きな変化がないことがその原因ではないかと思うのだがどうだろうか。
 「シング ユア ライフ」「冬の夜の深さについて」はさまざまな点で「キッス オブ ライフ」と違っている。歌唱法も変わっている。しかしそれでもGRAND ARM的な強さ激しさとそれは別物だ。この2枚のアルバムが指向しているのはブルース(ジャズもはいっているか?)である。
 私がここで言いたいのは4月21日のライブで加奈崎さんが「フォークソングの神髄」と称して行った演奏とこれらのアルバムの演奏には大きな共通点があるということである。それを技術解説のようにいうことはできないが本当にそうだと思う。
 そう考えてくると「さらば東京」というアルバムだけが逆に特異な世界だということになる。このアルバムは、もちろん加奈崎さんのソロアルバムであるが、そこにGRAND ARMを記録に残したいという加奈崎さんの意図も働いているという。後にファンクラブがGRAND ARMの海賊版CDを作ることになったが、それがなければGRAND ARMはこのアルバムにかろうじてその片鱗だけをとどめる存在になるところだったのだ。そのためかこのアルバムはGRAND ARM的雰囲気が支配的だ。そしてそれは「冬の夜の深さについて」までの基準で言うと加奈崎芳太郎的でない。

 このことから何を言いたいのかというと以下のようなことである。

 4月21日の前半の「もうひとつの加奈崎芳太郎の世界」と私が呼んだ演奏とは、実はGRAND ARM以前の演奏に帰るということだったのではないか。

 「自分が最後に残したいものはVOICEだ。」

 加奈崎さんのこの言葉を私が最初に引用したのは「今、加奈崎芳太郎が古井戸を歌うことの意味」という文章においてだった。その文章はこのHPのtopicsのページに長いこと掲載してもらっているので興味のある人は読んでみて下さい。
 その中で私は、VOICEを「理性的な意味を運ぶ道具でも、表層的な感情を旋律に乗せるための音でもなく、無意識層からわき上がってくる何か、人間の根元的な何か、魂そのものの叫びやつぶやき」だと定義し、その例として「ジャニス・ジョプリンのVOICE」をあげた。
 
 次にVOICEについて私が述べたのは、「加奈崎芳太郎 −その死と再生−」という文章の中でだった。この文章は2000年9月に行われたポニーさん主催のライブ当日にお土産として配布したもので、その後は2000年12月のGrand Finalでやはりお土産として配布した「BOMB加奈崎芳太郎論集」に再録したのみで、HPなどでは公開していない幻の名作である(と自分で言うな、ってひとりでボケてひとりでツッコミを入れてみる。本当は旅芸人さまから「クラー!俺を勝手に殺すな」と叱られたのでお蔵入りさせてしまったのだ)。そこで私はこんなことを述べている。

 『 私はいま、これから新たに加奈崎芳太郎と出会う人々を羨ましいと思っている。あるいは、東京でない場所で加奈崎芳太郎と出会う人々を羨ましいと思っている。これは皮肉でも何でもない。なぜなら、そういった新しいファンほど何の先入観もなしにいまの加奈崎を素直に聴くことができるからだ。
 長く加奈崎を見続けてきたファンほど、特に古井戸時代を知っているファンほど、2000年にスタートした加奈崎の新生面に気付きにくいのではないか。たとえ気付いても、それを受け入れるのに時間がかかるのではないか。
 加奈崎の歌はきっと徐々に新しいものに置き換わっていくだろう。そして気が付いたら全く別の音楽世界がそこに生まれていて、振り返ってみたらその転換点が2000年であったということになるに違いない。
 では、生まれ変わった加奈崎芳太郎はいったいどんな音楽世界を私たちに見せてくれるのだろう。そのことに関して私は、『今、加奈崎芳太郎が古井戸を歌うことの意味』という拙文の中で「VOICE」という言葉をキーワードとして説明した。

 「自分が最後に残したいものはVOICEだ。」

 と加奈崎芳太郎が語るのを聞いたことがある。加奈崎は、古井戸の昔もソロとなった今も、ひとりのヴォーカリストでありたいと願い続けていた。しかし、その願いは社会や時代に深くコミットしていく現在の歌作りの中では満たされないのではないか。その延長線上に答えはないのではないか。加奈崎自身が意味にこだわり続ける限り、その声は意味の伝達に奉仕する道具でしかない。突き詰めて考えると、ヴォーカリスト加奈崎を満足させるためには、現在のスタイルを再び破壊し、全く新しい地平を切り拓くしかないということになる。

 きっと加奈崎はそういう方向に踏み出して行くに違いない。「OLD・50」と「雨は降る」という歌がある。私はそれを多くの人にぜひ聴いてもらいたいと思っている。なぜなら、そこに「新生・加奈崎」の目指す「VOICE」があるからだ。私はそう信じている。この2曲はきっと今晩のライブの中でも演奏されるに違いない。どうか心して聴いて欲しい。
 しかし、これは私の考えに過ぎない。加奈崎芳太郎が本当は何を目指しているのかなどということは、凡夫に過ぎない私などがうんぬんできることではないのかもしれない。もしかしたら我々に出来るのは、心を虚しくして、じっと耳を澄まし目を凝らし加奈崎芳太郎の一挙手一投足に注目し続けることだけなのかもしれない。なぜなら、生まれたての加奈崎芳太郎は、いま何ものも背負わぬ絶対的自由の中にいるのだから。 』

 ここまでが引用である。幻の文章であるので少し長めに引用させてもらった。
 いま読み返してみてちょっと恐くなった。「長く加奈崎を見続けてきたファンほど(中略)加奈崎の新生面に気付きにくいのではないか。たとえ気付いても、それを受け入れるのに時間がかかるのではないか。」という文章を書いたときには当然自分は除外して、自分以外の誰かさんのことを言っていたはずだ。だが今となってみれば、これこそが今年の自分の姿だと気付く(長いファンではないけど)。私は自分が警告した罠に自分ではまっていたのだ。
 もうひとつ。私は今回の一連の文章で1999年〜2000年末という括りを多用し、変化は2001年4月に突然起きたかのように言ってきた。ところが、「それは違う。変化は2000年中にはじまっていたのだ」と指摘している人がいた。それはなんと私自身で、しかも1年以上も前にそんなことを言っていたのだ。びっくりである(しかし、自分が自分に論争を仕掛けても意味がないので無視して先に行く)。

 VOICEについて昨年書いた二つの自分の文章を引用した。このうちVOICEの定義はまだ生きていると思う。しかし、具体的にどんな声や歌がそれに当たるのかということについては、私は見当はずれのことを言っていたと言わざるを得ない。そしてその見込み違いが、今年の加奈崎さんを私がなかなか上手く飲み込めず、何も語れなくなってしまった原因のひとつだったのだと思う。
 はっきり言えば、今年加奈崎さんが演ろうとしていることが「VOICEを残す作業」だという認識を私が持てたのは晩秋になってからのことである。昨年、かなりいい線までこの問題に迫っていながら、それをこれと結びつけて考えることがなかなか出来なかった。

 なぜか。その理由ははっきりしている。加奈崎さんが残そうとしているVOICEはシャウトに違いない。私はそう思いこんでいたからである。しかし、それは間違いだった。

 ジャニス・ジョプリンを思ったとき、私の頭にあったのは「サマータイム」ではなかった。それ以外のめいっぱいシャウトしている曲の数々を思い浮かべてジョプリンを例に挙げたのである(でも、ジョプリンは「ボヘミアン」の人みたいにただ単に吠えているだけの歌手ではない。ものすごい技術を持っていると私は思っている)。
 「OLD・50」と「雨は降る」を挙げたのもそうだ。「OLD・50」では「才をとった・・・」のあとの「アーア」という叫びを思い描いていたのだし、「雨は降る」では「愛したいんです・・・」のあとの「です・デス・です」こそがそれだと思っていたのだ。
 私の期待していたVOICEとはそういうものであり、そういうものを含む歌だったのである。そう考えると私がVOICEを「理性的な意味を運ぶ道具でも、表層的な感情を旋律に乗せるための音でもなく、無意識層からわき上がってくる何か、人間の根元的な何か、魂そのものの叫びやつぶやき」と定義した理由もよく分かるだろう。

 しかし、それは私の考えるVOICEであって、加奈崎さんの想うVOICEではなかったのだ。そのことに気付いてみると、実は加奈崎さんがそのことにかなり明確に言及していたことが思い出される。思い出されるということは、聞いていたということである。聞いていながら、意味を理解していなかったということである。なぜ理解できなかったかと言えば、私のVOICEについての先入観が、加奈崎さんの話を素直に聞くことを邪魔をしていたからである。

 4月21日のライブの中で加奈崎さんはVOICEについて語った。私は個人的な会話を通じて加奈崎さんのVOICEへの想いを知ってそれを文章に書いたりしていたが、ライブのMCという形で加奈崎さんがVOICEについて語るのを聞くのはそれがはじめてだった(気がする)。もしかしたら4・21が本当にはじめてだったのではないかと思っているのだがどうだろう(2000年のJAPAN TOURのどこかで加奈崎さんがその話をしたのを聞いた人がいたら教えてほしい)。
 それはおおよそこんな内容だった。

 自分がひとりのミュージシャンとして最後に残したいのはVOICEだ。だから井上陽水がカヴァー曲を歌う気持ちがわかる。純粋にVOICEを残そうと思ったら自分の曲でないほうがやりやすいからだ。でもだからって何で「花の首飾り」なんだ。それは理解できない。

 うろ覚えでいけないが、こんな話だったと思う。

 井上陽水は加奈崎さんが70年代のフォークソングブームの時代以来、ヴォーカリストのライバルとして意識してきた2人のうちの1人だという(ちなみにもう一人は忌野清志郎だそうだ)。だからともに50歳を越えたいま、自分と同じように陽水もVOICEを残したいと思っていて、だから「珈琲ルンバ」とか「花の首飾り」をカヴァーしたに違いないと加奈崎さんはいうのだ。

 いつだったか、加奈崎さんがカヴァー曲だけのアルバムを作る夢について語っているのを聞いたことがある。構想としては、ミュージシャン加奈崎の原点となったマイフェーバリットソングを集めてそれに超訳の日本語歌詞をつけて歌うのだという。それにはPPMとかの外国曲ばかりでなく、日本の歌も入るという。シャンソンだったかボサノバだったか、こんな曲も入れちゃうんだぜと具体的に曲名まで教えてもらった気がするが何という曲だったか忘れてしまった(すみません)。ひとつだけはっきり覚えているのは「500マイル」だ。
 たぶんその後からだと思うのだが、加奈崎さんはライブの中で「500マイル」を歌うようになる。最初は単独で一節だけ歌ったような気がするが、それが今では「ミラー」と組み合わされて重要なレパートリーになっている。

 これだけのことを知っていれば、こういうものが加奈崎さんにとってのVOICEだったのだと気付いてもよさそうなのだが、なぜか気付かないのである。やはり先入観に支配されて「曇りなきまなこで見定める」(「もののけ姫」より)ことが出来なかったのだろう。

 このように考えると、加奈崎さんがライブで歌った他人の曲が気になってくる。ここに加奈崎さんの思い描くVOICEのヒントがあるに違いないからだ。
 「500マイル」は2000年中にすでに歌われていたと思う。しかし、2000年はそれだけだったと思う。2001年に入って「500マイル」はさわりだけではあるがしっかりとレパートリーの一部になった。
 同様にレパートリーの一部になったのが「スタンド・バイ・ミー」である。「スタンド・バイ・ミー」〜「さなえちゃん」〜「こどもたちのうた」という流れはすでに完成された芸になっていると私は思う。ところでこの曲はジョン・レノンによってカヴァーされている。加奈崎さんにとっての歌の師匠は2人いて、1人はレイ・チャールズで、もう1人がジョン・レノンなのだという。師匠がカヴァーした曲を、加奈崎さんがさらにカヴァーする。そう考えると極めて興味深い。  
 私はもう1曲知っている。それは9月1日の武蔵野ライブで演奏された「上を向いて歩こう」である。なぜあのライブでこの曲を演ったのか。それは私にとって謎であるが、加奈崎さんがフェーバリットソングとして取り上げたことだけは確かだろう。
 この他にもあっただろうか。もしこれ以外の曲を聞いたという人があったら教えてほしいと思う。

 「500マイル」「スタンド・バイ・ミー」「上を向いて歩こう」と並べてみて何かが見えてくるだろうか。正直言うと私には何も見えてこない。ピンと来ないと言ったほうがいいか。これはもしかしたら世代の問題かもしれない。団塊の世代の人にとってはこの3曲の意味が十分すぎるほど分かるのかも知れない。しかし、だからといって立ち止まっているわけには行かない。これらの歌を通じて加奈崎さんの思い描くVOICE、残したいVOICEについて考えていくしかないと思う。

 加奈崎さんがライブで歌った他人の曲。一番重要な曲をわざと抜かしていた。それは仲井戸麗市の名曲の数々。それは「古井戸2000」という形で演っているので別に考えるべきなのか、一緒に考えるべきなのか。正直にいうと、現段階では私の中にこの件について語りうる何ものもありません。

 「500マイル」「スタンド・バイ・ミー」「上を向いて歩こう」。加奈崎さんが好んで歌う他人の曲。そこに加奈崎さんの求めるVOICEのヒントがあるに違いない。しかし、それだけではよくわからない。例えば「500マイル」を歌う加奈崎さん。慈しむような歌い方ではあるが、特別な声がそこにあるわけではない。何の技巧も感じられない。そのどこに「VOICE」があるのか・・・分からない。

 今年になって発表した新曲がある。「月に腰かけて」と「Good night」。ではそこにこそVOICEがあるのか? どちらも静かな曲。囁くような、呟くような曲。時に声を張る部分はあっても全体のトーンはあくまでも深く静かに内向していく。朗々と歌い上げるわけでも、鋭く切り裂くようにシャウトするわけでもない。どこに「VOICE」があるのか分からない・・・確信が持てない。

 例えば「噫・無常」の「噫」というあの絶唱を切り取って、「これこそがVOICEだ。」と言ってもらえればなんと分かりやすいだろう。あるいは「さらば東京」の間奏部分の唸り声を指して、「これだ。」と言われればどれほど受け入れやすいだろう。しかし、そういうものではないらしい。

 すっかり行き詰まった私は、機会を捉えて直に加奈崎さんに聞いてしまった。あれは9月から10月にかけてのことだったと思う。加奈崎さんがBBSで今年のツアーのテーマについて「教えてやんない」というようなことをおっしゃっていたのだから、ルール違反もいいところである。しかし私は自分の欲望を制御できなかった。「500マイル」や新曲のどこにVOICEがあるのか分からない。VOICEを具現しているのはどの歌ですか。あるいはこれからそういう歌が書かれるのですか。などとストレートに私は聞いてしまった。「お願いですからヒントだけでも下さい」すると加奈崎さんは、「しょうがねえなぁ」という感じでこんな話をしてくれた。

 今年は意識して「キッス オブ ライフ」の頃に作った歌を演っている。若い頃に作った曲はどうしても背伸びをして作っているところがある。その歌を50を過ぎた今演ることで何が表現できるかだ・・・ 

 その話を聞き終わらないうちに私は加奈崎さんの言葉を遮りたい衝動にかられた。

なんだ。そのことだったのか。そのことなら気付いていたのに。なぜ加奈崎さんにヒントをもらうまで結びつけて考えることが出来なかったのだ。なんてバカなんだ。なんてハズカシーんだ 。ああ、穴があったら入りたい。

 その時の私の気持ちを言えばそんな感じだ。そこで私は、本当に加奈崎さんから話を奪って自分の考えを述べ始めてしまった。それが、これから述べる私の考えなのだが、そのために加奈崎さんの話を最後まできちんと聞いていなかった。だから、これから私が述べること加奈崎さんの考えでもあるのかと言われれば疑問である。
 そもそも上記の加奈崎さんから聞いたという話そのものがおかしい。「キッス オブ ライフ」の頃と言えば90年前後ということだと思うのだが、今年のツアーの重要なレパートリーでそれにあたるのは「いつまでも若いままで」ぐらいしかない。すくなくとも「自我像」で見るとそうなってしまう。また、若い頃の曲といっても90年頃と言えば今から10年前、もちろん今よりは若いが、加奈崎さんは40歳過ぎ、分別盛りの大人である。ぺーぺーの若造だったわけではない。
 そういうわけで、私が加奈崎さんから直に聞いたという話自体があやふやなのだが、「お言葉」をきっかけに自分の考えが出来上がったことだけは確かである。というわけで、そういう曖昧さ、嘘臭さも折り込んで、眉に唾をつけながら以下の話を聞いてほしい。

 昨年のGrand Finalについての自分の文章を引用しようと思って「回顧 1999〜2000年スイスライブ」というBBSに投稿した文章を引っぱり出したら思わず読みふけってしまった。
 1999年〜2000年の加奈崎さんは特別な存在(神憑り?)であったということをしつこいくらい言ってきたが、もしかしたらそばにいた私たちも、自覚のないままその影響下にあったのかもしれない。いま私が書き継いでいる文章とは密度が違う。自分が書いたということが信じがたいぐらいだ。でも、そうだよな。そうでもなければ同一地区で同一ミュージシャンのライブを年5回行うなんてことが出来るはずがない。
 
 あ、いかん。寄り道している場合ではなかった。先を急ごう。と言うわけでGrand Final
アンコール部分の感想を引用します。

 アンコールの一曲目は「OLD・50」。ふと客席を見ると、観客の背中が加奈崎さんに向かって集中しているのが分かった。誰もが息を殺し、みじろぎもしないが、その背中はオープニングの時の「Happy Days」の時のこわばった背中とは明らかに違う。今この会場に集った全ての人の心の中に、加奈崎さんの思いが、願いが、祈りが、静かに降り積もっている。そんな景色が見えた気がした。

 「20才になったら オサラバしようと・・・」

 曲は「20才になったら」の挿入に移った。そのフレーズを私は素直に受け入れた。私はこの時代の加奈崎さんの歌があまり好きではなかった。「おまえと俺」「遙かなる河」「人生に幸多かれ」そして「20才になったら」。これらの歌は、いずれも人生をテーマとしているが、あまりに老成している。とても20代半ばの若者が作り歌うような歌ではない。生意気にもずっとそう思ってきた。その歌がいま、素直に心に染み入る。
 どこら辺でだったか、MCの中で加奈崎さんが「熟成」について語った。それは「もう成長はしない。俺に残されているのは熟成だけだ。」といった文脈で使われていたが、私は勝手に「時を経て歌が熟成したんだ。」と思った。「OLD・50」と「20才になったら」。時を隔てた2つの歌の世界が、ひとつの世界に自然に融合している。

 こんな文章を書いていたのだな。こんな文章を書いていながら、どうして加奈崎さんから「お言葉」をもらわなければ気付けなかったのだろう。情けなくてため息が出る。

 自分の書いたものを自分で解説するのも何だが、ちょっと話をしよう。
 「俺に残されているのは熟成だけだ。」確かにGrand FinalのMCの中で加奈崎さんはそう言ったのだ。だとしたら、それが2001年のテーマに決まっているではないか。気持ちが落ち込もうが、喉を痛めようが、なにしようが、そんな心と体の状態と無関係に2001年に進むべき道は決まっていたのだ。それはGrand Final当日に予告された既定路線だったのだ。
 加奈崎さんがそういう仕掛けをする人だということを私は今年になって知った。Grand FinalのクロージングBGMに使われた曲を、加奈崎さんは9月1日武蔵野ライブのオープニングで歌った。曲名は知らないが「外へ 外へ」という歌だ。真意がどこにあるのか本当のところは分からないが、加奈崎さんの中でGrand Finalと武蔵野ライブが時空を越えてつながっていたことは間違いないだろう。そんな大き過ぎて、もしかしたら誰にも気付いてもらえないかもしれない仕掛けをするのが加奈崎さんなのだとしたら、Grand Finalでの発言が、4・21クラブ・ザ・モンキーライブにつながっていないはずがないではないか。加奈崎さんは00・12・17にした約束を01・4・21に果たしたのだ。凡夫である我々は、そういう大きな流れを理解することが出来ない。だからつねにウロウロ、オロオロしてしまうのだ。
 こう考えると、4・21のあと、私が「遙かなる河」と「人生に幸多かれ」にはまった理由も納得できる。私は意識上では00・12・17と01・4・21をつなげて考えることができなかった。しかしきっと無意識下ではそのつながりを分かっていたのだ。だから「遙かなる河」と「人生に幸多かれ」だったのだ。

 加奈崎さんは後世に残すべきVOICEを盛るべき器として自らの若かりし時代の作品を選んだ。それは見方によっては他人の曲をカヴァーすることに近い。
 なぜなら自分の作品とはいえ、古い時代の作品は今の加奈崎さんの想いを直接的に伝えるものではないからだ。その時々のいまの想いを伝えるために加奈崎さんは今後も新曲を作る続けるだろう。しかし、その新しい歌はVOICEを表現するのに適さない。いまの想いが盛られている以上、その想いを伝えることが歌うことの一義的な目的となるからだ。
しかしながら旧作ならばメッセージそのものよりもVOICEを表現することに重点を置いても許されるはずだ。これは加奈崎さんが古井戸の楽曲を歌うこととその意義において相通ずるものがある。
 
 若かりし時代の作品を歌うことにはもうひとつ重要な意味がある。それは、若かりし時代の演奏が記録に残されているならば、52歳の加奈崎さんの表現と若かりし時代の加奈崎さんの表現を比較対照することができるからだ。記録が残っていなくても、加奈崎さんはそれを自分の中で比較し得るだろう。そのことによって加奈崎さんは、あるいは私たちは、52歳の加奈崎さんが表現できたこと、表現できなかったことをつぶさに知ることが出来る。その違いとして表現された何かが、たぶんVOICEなのだと私は思う。
 ましてや加奈崎さん自身も言っているように、若かりし時代の加奈崎さんの歌には背伸びをした老成した作品が多い。それを50歳を越えた加奈崎さんが歌うのである。かつては表現できなかったものが、いまなら表現できる。そういう部分がたくさんあることが予想される。そして、そういうことを「熟成」とうのではないか。

 「新しい酒は新しい革袋に盛れ」という諺がある。かつて吉田拓郎は「古い船をいま動かせるのは古い水夫じゃないだろう」と歌った。そうすると、加奈崎さんがしようとしている、あるいは現にしていることはどういうことになるのだろう。若かりし時代に作った歌は、新しい革袋なのか古い船なのか、それを歌う加奈崎さんは古い水夫ということなのか、そもそも表現しようとしているVOICEは酒なのか革袋なのか。大体こんな例えに意味があるのか。
 いずれにしろ加奈崎さんが演ろうとしていることはかなり複雑で興味深いことなのだと思う。きっとそういう作業を経て生み出されるものも面白いものとなるに違いない。

 さて、このあとにいよいよ、そういう作業を経て生み出されるVOICEとはどんなものなのか考えてみたい。ポイントは「喉を痛め、声を失う不安に直面した」ということと「VOICEを残すという作業」が、相互に関連しているのかいないのかということだと思う。

 2001年4月、加奈崎さんは喉を壊した。それは、普通にしゃべるのさえ辛いという極めて深刻な状態であった。一時期は最悪な結果さえ疑われた。加奈崎さんは4月21日のライブをキャンセルするかどうか迷った。例え強行したとしても、歌い終えたあとの状態によってはその後のツアーそのものをキャンセルするという最悪の決断をしなければならなかった。そばにいる私たちはただオロオロするばかりだった。「支える」などと言いながら、いざとなったら何も出来ない我が身が恨めしかった。

 幸いにして、4・21のあとの加奈崎さんの喉は最悪の状態にまでは至らなかった。結局、加奈崎さんは予定通りツアーに出発したが、喉の状態が回復したわけではなかった。加奈崎さんは、民間治療薬やら健康食品やら何種類もの薬を持ち歩くことになり、そのためにクラーボックスまで買ったのである。
 その後も、普通にしゃべるのも辛いという状態は去らなかった。「喉の調子どうですか。」「相変わらずだ。」スイスに帰られるたびに交わされるそんなやり取りが、いつしか加奈崎さんと私たちスイススタッフの挨拶言葉になってしまった。

 夏休み明け最初のライブは9月1日の武蔵野ライブだった。これには私も参加させてもらった。休養を十分取ったためか加奈崎さんの声は戻っていた。「Knife」がはじまったとき、私は演奏内容うんぬんより、加奈崎さんが「Knife」を演ろうと思えるような状態になったことに感動した。終演後、「声出ていましたね。」と言うと、「声が出ていたからといって、いい演奏だったということにはならない。声が出ているときの方が危ういのだ。」といった趣旨の返事が返ってきた。そんなことが言えるほどに加奈崎さんは回復したのだ。
 その後鬼門の「古井戸2000」ライブも無事こなし、10月7日のきょういく対話集会でもいい感じの声が出ていた。ここでも「knife」〜「凡夫」の全開の演奏が聴けたし、久々に「ジャパニーズウエディングソング」を聴くこともできた。由緒正しいホールにその声は気持ちよく広がった。私はこれで完全復活だなと安心した。

 ところがその後、再び喉の調子が悪くなった。10月31日・11月2日・3日と続いたライブの最後のMogiライブではかなり厳しい状態だったという。ポニーさんからそんな報告を受けた私は、胸がつぶれるような思いになり、取るものも取りあえずに飯田キャンバスライブに駆けつけたのであった(その時のことはこの連載の最初の方に書いた)。

 思えば、2000年秋の北海道ツアーでも加奈崎さんは喉を痛めた。その時は、しゃべる声は全く出ないが、歌う声だけはかろうじて出るというヒヤヒヤものの状態でツアーを続けたという。だが、そのツアーから帰ったあと加奈崎さんはこんなことを言っていた。
「俺にはふたつ喉がある。ひとつ目の喉が潰れてもふたつ目の喉で歌うことは出来る」
 理解を超えた話だが、加奈崎さんは確かにそういった。そして、その喉があったから数々の危機も乗り越えてきたのだといっていた。ところが今回は、ふたつ目の喉も壊れてしまったのだという。

 いまのところ、全く歌えなくなるといった危機的な状況は回避されたようである。しかし、完全回復したというわけでもないようだ。そして、今後もこのようなことが繰り返されていくのだろうと私は思う。歌わないでいれば回復する、しかし無理を重ねると壊れる。そして、壊れるたびに、高音域が出にくくなったり、声量が落ちたり、声の伸びや艶が失われたりしていく。
 いくつになってもスリムな体型を維持し続け、髪は黒々として薄くもならない。ひとたびステージに立てば壮絶なパワーで聴く者を圧倒し、とても50歳を越えているとは思えないエネルギーを発散する。そう言われ続けてきた加奈崎芳太郎にも確実に老いは忍び寄ってくる。しかも、ヴォーカリストとして最も大切な喉に。しかし、それはどうしようもないことなのだ。冷酷な現実ではあるが、受け入れなければならない現実なのだ。
   
 しかもそれは今に始まったことではないのだ。一昨年加奈崎さんと出会ったとき、昔と何も変わらないと感じた私は正直にそう伝えた。その言葉に対し加奈崎さんは真っ先に「だが、声量は昔の半分しかない。」と答えた。
 「1999.12.12. Jean Jean Last Solo Nigth」を聴いて、会場BGMに使われていた「MY Girl」に参り、ぜひ生で聴きたいと無邪気にリクエストしたことがある。すると加奈崎さんは「あの声はもう出ない」とぶっきらぼうに答えた。同様に「ライダーズソング」もオリジナルキーでは二度と聴くことが出来ない。もしかしたら「オヤジのオートバイ」がもう危ないのかもしれない。

 加奈崎さんがヴォーカリストとして一流であることを疑う者はいない。しかし、デビュー以来一貫して同じレベルにいたわけではないだろう。もちろん天賦の才があったわけだが、研鑽を重ね一段一段階段を昇るように進歩し続けて来たのだろう。そして、どこかの時点でヴォーカリストとしての「完成」を自覚した時があったのではないか。
 それをいつであったのか言い当てることなど私には出来ないし、それを探り当てようとも思わないが、例えば「12th Fret」というアルバムをはじめて聴いたとき、真っ先に私の頭に浮かんだのは「ヴォーカリストとして完成」という言葉であった。古井戸の晩期から「キッス オブ ライフ」の間のどこかで、世間的に評価を受けるかどうかということと無関係に、加奈崎さんが「ヴォーカリストとしての完成」を自覚した時期があったのではないか。

 しかし、満月が必ず欠けるように、完成したものは必ず壊れていく。持って生まれた声の良さと豊かな声量に技術が加わり、ひとつの楽器として自由自在に自分の声を操れるようになったとしても、いずれは体力の衰えと共にバランスが崩れ、自分のイメージ通りの声を再現することが難しくなっていく。たぶんある時期以降、加奈崎さんも、ひとつひとつ「声」を喪失し続けてきたのだろう(完成を自覚したと同時に、それを維持しようとすることを潔しとせず意識的に解体しようとする人がいる。加奈崎さんはそういうタイプなのかもしれないが、もしそうであったとしても、それとこれはまた別の話だ)。

 では、このような考えに立ったとき「VOICEを残す」とはどういうことになるのだろうか。

 「熟成」と言えば聞こえはいいが、人間の声は寝かせておくと自然にまろやかになったりするわけではない。現実は日々衰えでいくだけだ。どれほどトレーニングを積んでも衰えを先延ばしに出来るだけで、必ず衰えていくのだ。ある野球選手が、このまま技術的に向上していったらいずれ10割打てるようになると確信した時期があったそうだが、現実には肉体の衰えがやって来てそれは叶わなかったというようなことを語っていたのを覚えている(落合だったかな?)。このように肉体とは残念ながら必ず衰え、そのことにより人を裏切るものなのだ。

 だとしたら私たちは衰えないものに期待するしかないと言うことになる。それは何か。
 精神性。それしかないのではないかというのが私の考えである。そして加奈崎さんの考えでもあるのだ。VOICEはどこにあるんですかと私が直に尋ねてしまったという話をしたが、そのときにこんな会話もあった。

「年を取って声が出なくなっても無くならないものは何だか分かるか?」
「・・・精神性ですか?」
「そうだ。精神的深さだ。」

 例によって前後の文脈は覚えていない。断片的な記憶に過ぎないし、正確にこの通りの言葉だったかどうかと言われると自信はない。この後に加奈崎さんが「それがVOICEだ。」と言ったと作文すればカッコイイのだが、たぶんそこまでの言及は無かったと思う。しかし、これはほとんど決定的な発言だ(なんだそんなはっきりした「お言葉」があったのなら、何をまわりくどい話をしていたのだと叱られそうだが、私にもいろいろとお喋りしたいことがあるのだ)。
 精神性は年を重ねたぶんだけ深まっていく可能性がある。精神は、もっとはっきり言えば脳の働きは、肉体と違い死ぬまで成長し続ける可能性がある。これならば「熟成」すると言える。ただしそれは可能性であって、すべての人が長生きしたぶんだけ必ず精神的に深くなるわけではない。

 では、肉体的に衰え続ける歌手が、あるいはその歌手の歌が「熟成」するとはどういうことなのだろうか。私は、肉体的な衰えを精神性でカバーしていくことなのではないかと思う。透明感のある声が出ない。艶のある声が出ない。伸びやかな高音部の声が出ない。そういうことはそれだけでは衰えである。しかし、そこに深い精神性が何らかの方法によって付け加えられ歌に陰影や奥行きが与えられるならば、物理的に高い声が出るとか、伸びやかで艶のある声だということを越えられるのではないか。
 いやこんなことを観念的に言っているだけではしょうがない。ひとつ例を出そう。それが本当に適切な、加奈崎さんにも了解してもらえるような例なのかは分からないが、取りあえず考えるきっかけにしてもらえればいいと思う。

 アルバム「さらば東京」に「陽炎」が収められている。この曲は再録でもともとは「風の生き方」(79年)に収められていた。また「ラスト・ステージ」(79年)にも収められているのでいま3パターンの「陽炎」を聞くことが出来る。79年の2つの「陽炎」を聞くと、もともと高音部に無理があるようで、若い頃の加奈崎さんでも悠々と高音部の声が出ていたわけではない。サビの部分はかなりの力技で乗り切っている感じがする。
 これに対して「さらば東京」バージョンは、若い頃も苦労していたからということを割り引いても、あまりにも声が出ていない。高音が苦しいだけではなく、声がふらついたり、よれたり、つまったりして、ちょっと聞くとボロボロという感じなのである。最初の呟きから入るところなど明らかにキーが狂ってさえいる。はじめて聞いたとき、なぜこれがOKテイクなのか私は理解できなかった。もしも、それをそのまま受け取ってしまえば、加奈崎も衰えたなぁということになってしまうのではないか。
 しかし、よく考えてみればライブの収録ではないのだから、声が出てなかったりよれたりしたら録り直せばいいわけで、これをそのまま収録したのにはそれ相当の理由があったに違いない。しかし、その理由は分からないままだった。
 それが分かった気になったのは、まさにこの問題を考えはじめてからだ。「精神性」という観点を持ち込んで見ると一気にこの演奏がOKテイクである理由が分かる(少なくとも私はそう思う)。79年の2種類の演奏を聴くことの出来る人はぜひ聴き比べて見てほしい。「さらば東京」バージョンの方がはるかに深いということに気付くはずだ。

 例えどれほど声が出なくても、音がぶれても、そういう肉体的・技術的な問題をカバーしてあまりある精神性がその演奏の中に表現されているのならばそれは全く問題ではない。いやむしろその方が演奏として上なのではないか。
 もしこういう考え方が認められるならば、ヴォーカリスト加奈崎は最高の演奏をどこまでも続けられることになる。年齢とともに肉体的・技術的に失ったものに見合う精神性を常に表現できればいいからだ。

 最近の加奈崎さんの歌唱法のひとつにメロディを捨てて呟くというのがある。これは高音部が出そうもないところでオクターブ下げて呟きにしてしまうという形でも使われるが、サビに至る前の部分でもよく用いられる。特に歌い出しの部分で。(「さらば東京」バージョンの「陽炎」などその典型だ)。仮に60になり70になり、今より遙かに音域が狭くない、息も続かなくなって、それでもまだ歌い続けている加奈崎さんを想像するとき、これは非常に有用な技術ではないかと思える。そしてそこに「VOICE」のひとつの方向性があるのではないかという気もする。
 歌が、歌唱法や技術を捨て、メロディを捨て、リズムを捨て、最後には言葉さえ捨てる。残るのは精神性のみ。これはもちろん空想に過ぎないが、もしそんなことになったらこれはほとんど中島敦の「名人伝」の世界、悟りの境地である。
 なぜこんな話をしたのかというと、「500マイル」を歌うときの加奈崎さんにそんな境地に通ずるものをふと感じたからである。やはりマイフェーバリットソングを歌うとことの先にしっかりVOICEが位置づけられているののかも知れない。

 12月2日、このBBSにおいて加奈崎さんから極めて重要な発言があった。THE FINALに向けてのリクエスト募集に関わって加奈崎さんは以下のような条件を出されたのだ。
 
まず「ザ・ファイナル」が今年の総決算とはわし自身が考えていないこと、できれば来年も唄う事の必然性がそこに生まれてくる事を願っている。と云うことを想像してもらいたいこと。

 これを私が述べてきたこととつなげるならば、次のように理解することも可能なのではないか。
 「VOICEを残す」作業は今年はじまったにしても、今年で完結するようなものではなく、これから加奈崎さんが歌い続ける限り続いて行く作業なのだ。このことは同時に加奈崎さんがこれからもずっと歌い続けるという宣言でもある。そのためには「VOICEを盛るべき器としての歌」が必要であり、具体的にどんな歌が適当なのか、それを加奈崎さんは探しているところである。
 
 「自分が最後に残したいものはVOICEだ」

 この言葉を加奈崎さんから聞いたとき、その作業に着手するのははるかに遠い先の話で、今はまだまだ期が熟していないと考えていた。しかし、それは今年突然のようにはじまった(自分の言ったことを尊重するなら、その胎動は2000年中からはじまっていたと考えるべきだろう)。もしかしたら声を失うかもしれないという恐怖を体験したことにより加奈崎さんは計画の実施を早めたのかも知れない。
 1999年〜2000年にかけての加奈崎さんの歌について「歌を越える何か」だということを言ってきたが、それもひとつの精神性だろう。しかし、その方向性は180度違う。これまでがテンパってテンパりまくって日常性を越えていくような激しい感情の爆発としての外にむけて拡散していく精神性だとしたら、2001年からはじまったそれは、日常性にとどまり、深く静かに内向していくような極めて理性的な精神性なのだろう。
 それがどのようなものか実はそれ以上のことは何も分からない。その内実はTHE FINALあるいは、それに続くライブを通じて明らかにされていくのだろう。ここまで来たらもう何も言わずに、取りあえず加奈崎さんの歌に耳を傾けて見よう。それから再び思いを巡らせばよい。

 最後にもうひとつ。THE FINALでは昨年のGrand Finalのビデオが販売されるという。またホルモンタンクレコーズによるレコーディングも行われるという。この話を聞いて何とも象徴的だなぁと私は思った。
 昨年のライブの記録はビデオという映像と音による記録だった。昨年「歌を越える何か」を表現していた加奈崎さんは歌だけでなくその存在そのものが重要であった。だから演奏だけでなく一挙手一投足、細かな表情から仕草まで記録に止めておくことになった。
 ところが今年は、歌そのものを表現する存在となった。歌だけが問題であるならば、その記録は録音で十分である。そして実際そうなったのである。

 私はこのレコーディングを重要視している。「VOICE」を残す作業が例え今年一年では終わらないものであったとしても、やはり目指すのは「VOICEを残すこと」である。その最初のひとまとめが音源として残されるということは極めて意義深いことだと思う。
 さあ、加奈崎さんはいったいどんなパフォーマンスをしてくれるのだろうか。私が長々と述べてきたことが単なる戯言で終わってしまうのか、それとも何らかの価値を持ちうるのか、その答えはもう40時間もすれば明らかになる。私もそろそろ言葉を紡ぎ出すことを中断して、歌を受け入れる態勢作りに入ろうと思う。
 というところで「2001年ファイナルへの道」を完結とさせていただきます。